17歳の12月24日だった。

高校二年生の自分は不登校だった。

正確に言うと、週2しか通っていなかった。

中学まで地元の自転車で5分先の中学校で通っていた。

当時の台湾の高校試験は志望校に入学試験を受けるではなくて、

全国試験が行われ、点数が出たら、志望校リストに自分で順番をつけ、

点数が高い人が優先に第一志望に入れて、というシステムだった。

そこまでいい成績ではなかったが、国立の学校に入れる点数だった

私立に入るお金なんてないってわかっていた。

でも私立の行きたい学校もなかったので、どうでもよかった。

そして半分ふざけな感じで希望リストを出した。

 

自分の感覚だと、たぶん9番目ぐらいに入るのかなと、

第一希望からいくつかは開成高校みたいこの点数じゃ絶対入れない学校ばかり選んでいた。

9番目の高校は自転車で7分のバス停て15分バスに乗り、また歩いて10分先の地元の人一番よく通っている高校だった。

国立とはいえ、結構偏差値低い高校だった。

でも実際入ったのは8番目に書いた学校だった。

実家は田舎で、大都市に属するが、実際東京都の多摩地区と23区の距離のものだ。

8番目の学校は市内の真ん中あたり、学校に登校時間は7時半まで。

それに間に合うのに朝五時半に起き、五時55分のバスに乗らなければならない。途中2回乗り換える。

それで高校一年生の時、学校のすぐ後ろに母と住んでいた。歩いて10分かからないくらいのとこだ。

賃貸の一軒家が部屋を貸すイメージ、シェアハウスのようだった。

母は一階と二階の間の部屋に住んでいて、私は三階の部屋だった。

今思うと訳アリの住人だらけだった。その部屋に心霊写真を撮ったこともあった。

同じ場所に写真を撮ると女の人が撮れた。首吊りで自殺したらしいって。

それを知ったのは通っていた塾の先生が教えてくれた。

確か授業の間の休憩に先生と何かを話したり、急に部屋の写真を見せることになって、それで先生が気付いた。

ほらここよく見て、いるでしょうって。複雑の気持ちを抱えて家に帰ったら、同じ場所をもう一回写真を撮ったら、やっぱりいた。

あれは確か四月のことだった。住み始めたのが、九月からだ(台湾の新学期はアメリカ式で、九月が始まり、六月が終わり)。

自分は霊感はなかった。あんなに毎日いるのに何も感じなかった。

怖いとかいやな気持ちももちろんあったが、それというより、パソコンで如何わしいサイトを見たり、オナニーしたり、化粧をしたりすることが見られているのが気になっていた。

高校の時なぜか美容系の番組にハマり、家で化粧することが多かった。

でも悩みは二、三日で気にしなくなった。どうせも半年以上見られているし、いいやって思っていた。

 

そして、六月一年生の終わりとともに地元に戻って、実家で暮らしてた。

実家とはいえ、最初お父さんとお父さん当時の彼女とおじさん(お父さんの弟)とおばさん(お父さんの妹)と住んでいた。

おばさんは障がい者で口の聞けない人だった。ちっちゃい頃、すごい熱が出て、当時病院が遠くて、おばあちゃん(かおじいちゃん)がおんぶして病院に着いたら、もう手遅れで、そのあとの後遺症らしい。みんなにE-GAO-A(唖の台湾語)と呼ばれていた。

不思議なことに、自分はずっとコミュニケーションが取れていた(私の思い込みかも)。おばさんは手話も学んでなかった。

なんて手ぶり身振りと表情とかで私たちと、コミュニケーションズをとっていた。

自分は言葉で返していたと思う(もしくは多少なボディランゲージ込みで、はっきり覚えていない)。

実家に戻ってから、学校は通わなくなった。学校でいじめを受けたわけではなかった。

距離もそうなんだけど、覚えているのはオンラインゲームにはまっていた。

いつも深夜か朝までしていた。そして起きれなくて、起きたのは昼くらいだった。

普通の高校生なら週五通うのにたぶん自分は週二しか行ってなかった。

学校に行ってもほとんど寝てた。

お父さんは放置主義なので、学校に行かなくても何にも言わなかった。ちっちゃい頃も門限なんてなかった。

大人になってからお父さんになんであの時何も言わなかったんなの?って聞いたら

あなたの人生だから、自分がそれでよければそれでいいんじゃないか。かとうって言ったら改めてくれるとても思えなかった。

お前にお兄さんとお姉さんを見てきたから、昔躾け色々したけど結局ダメだったからさ。

兄と姉は腹違い私腹違いの兄弟だった。16個上と14個上で物事覚えてからもう一緒に住んでなかった。

二人とも元犯罪者で刑務所に入ったことがあった。子供の頃お父さんと一緒に何回も面会行っていた。

刑務所に面会行くのは普通のことだと当たり前に疑うことはなかった。

父は元ヤクザで知り合いの警察もヤクザも仲良かった。

家によく警察の友達やらヤクザらしきの友達(たぶん本物)が遊びに来ていた。

もちろんこれも普通のことだと思っていた。

小学校に上り、周りの子供たちを見て、いつの間にか自分の家は普通じゃない家だって初めて分かった。

でもそこまで気にはしていなかった。しいといえば、影響があったのは学校の不良を見てても何にも思わないことだけだった。

普通じゃん、ただの一般人じゃん、なんでビビるの?理解できなかった。

 

学校をさぼる時、ほとんど一日中オンラインゲームや、日本のドラマを見ていた。

実家に戻って間もないぐらい、父とその彼女は借金で夜逃げした。

借金の元は姉の結婚式だったらしい、結婚式で祝儀で稼ごうとしたかどうかはわからないが、

結局レストランにお金が払えなくて、夜逃げした。

という別れをしたの正直覚えていない。

ただそのあとも自分は実家で暮らしていた。

家にいるのは私とおばさんとおじさんだけだった。

おじさんは一緒にいたっけ、正直はっきり覚えていない。

おじさんの人生はほとんど無職の時期が多かった。働くときは家にはいなかった。

 

お母さんは時々家に来ていた。自分の生活費はお母さんとお父さんから振り込みでもらっていた。

取り立ては最初に来ていたが、お父さんいなくなった。どこ行ったか分からない。って正直に伝えていた。

でも本当にどこ行ったか分からなかった。電話でしか連絡とっていなかった。

そして取り立ては徐々に来なくなった。

2007年12月23日の夜、お母さんは家に来た。

その翌日、前日やっぱり朝までオンラインゲームか何かで徹夜していたせいで、学校行かなかった。

急に部屋のドアが猛スピードで叩かれて、不機嫌な声で返事したら、お母さんだった。

えっいるの?

そりゃそうだろ!寝てるから!とキレ気味で返事をした。

じゃなんもないわ。足音が遠ざかっていた。

そして寝続けていた。

何時間後起きたら、朝のは何なのって聞いたら、

おばさんが死んだ。

近所の人朝知らせに来てたらしい、

死んだよ死んだよ、あんたちんの人が死んだ。

たぶんお母さんは頭の整理ができないまま、すぐ私の部屋に来たと思う。

そして生きていることが確認できたあと、

近所の人に何変なこと言ってるの?息子ちゃんと生きているし、

そして、おばさんのことだと知ったと思う。

起きてから、それを聞いて、は?って思った。じゃなんですぐに教えてくれないの?

当時のお母さんは何を考えているのか今でも理解できなかった。

ショックのあまりにどう言えばいいかが分からないか、もっと寝てほしいかほかの何かがどうかはわからなかった。

ただそのあと母に対しての怒りがすごく湧いた感覚だけ覚えていた。

 

おばさんは自殺だった。家から結構離れている養魚池で溺れていた。そして朝に発見された。

日付まで覚えているのはクリスマスイブだったからだ。

その前日の夜、お母さんの話によると、夜家に来た時ライトは点いていなかったが、ドアを開けるとおばさんがいてそれでびっくりした。

たぶん家に出ようとしていた。お母さんを見るとまた自分の部屋に戻った。

思えば、一緒に住んでるのに、ほぼ引きこもり生活で、あまり関わりもなかった。

言葉にできない心情だった。

何日後、火葬する手前に家族全員が棺に入っていたおばさんの遺体を見ていた。

ただ寝ているようだった。溺れ死とは言え、何日たったおかげかどうかはわからないが変な浮腫みはなかった。

葬式の時は泣かなかった。悲しくないというより、泣けなかった。

冷酷だな、今でも思う。

ただ葬式で泣いたことはなかった。おじさん(お父さんの弟)が亡くなったときもお爺ちゃん(お母さんの父親)の時の泣かなかった。

十何年も泣いてなかった。泣くってどういう感じだろ。今はわからない。

おばさんが亡くなったあとは普通に生活していた。ただ正真正銘の一人暮らしになった。

おばさんのことを思い出すのは怖いからか考えないことにした。何年も。

命は儚くすぐに消えてしまうことはその時悟ったかもしれない。

身近な人が急にいなくなっても、生きていける。何もしなくても生きている。

 

そのあとも学校を通うペースは変わらなかった。

出席率がひどすぎて二年生の終わりに、退学処分が下された。

異議あるなら、申し付けて下さいという連絡もあった。

母と(確か)家族会議をしていた。学校に行くこと自体が意味わからなかったが、

やっぱり在籍したほうがいいとなんとなく思ったから、異議を申し付けた。もう一回チャンスください的な。

そして学期が終わり、母と二人で学校へ行き、教育委員会みたいな人たちと面談した。

ドラマで見た大会議室のようで、委員たちと先生たちが両サイドに座っている。順番通りに呼ばれたら中に入る。

そして学校に残りたい理由などが尋ねられた。その場で改めたい、そして誠意を見せる演技が重要だってことはわかっていた。

母はたぶんびっくりしてた。自分の息子がこんなに正々堂々で平気に嘘をつけるなんて思っていたかもしれない。

結果留学察看という処分だった。(処分後改心したか、一定期間内で観察される)

 

三年生になって行通学するようにはなったが、やはり週五はきつかった。勉強もちゃんとしていなかったため、出席率はなんとかなったが、単位が足りず卒業できなかった。留年という選択肢もあったが、

そのまま高卒認定をもらって高校生活を終えた。

(当時の台湾は三年間通っていれば、高卒認定がもらえる制度だった)