普及≠布教 | 欧州野球狂の詩

欧州野球狂の詩

日本生まれイギリス育ちの野球マニアが、第2の故郷ヨーロッパの野球や自分の好きな音楽などについて、ざっくばらんな口調で熱く語ります♪

 去る18日、ベースボールブリッジとして開催した通算3回目のトークイベント、「イラン×野球スペシャルトークライブ」が無事終了した。今回は初めての飲食店での開催、それも六本木という言わずと知れた都会でのイベントとあって、俺たちクルーとしても今までとは違う新鮮な気持ちで当日に臨めたように思う。また、お迎えしたゲストも今回は過去2回の池永大輔さんではなく、色川冬馬さんという全く新しい人物をお呼びできたことも、非常に大きな意義があることだった。改めて、イベントに係ってくださった全ての方々にまず、この場を借りて心から御礼申し上げたい。ありがとうございます。


 国際野球というまだまだ新興の分野にとって、現状を広く伝え多くの人に知ってもらうことは、たとえ直接的な効果が期待できないにしてもとても重要なことだ。過去にも何度かこのブログでは引用しているけれど、俺が学生時代に授業を受けていた平田竹男・元日本サッカー協会専務理事(現内閣官房参与)の言葉をお借りすれば、「存在が知られない限り、どんな事象もやっていないのと同じ」。今回のイベントに参加したことで「小さくともイランにも野球があるんだ」という事実を知り、それに感銘を受けてくれた人がもし1人でも増えたなら、それは将来的な普及にも何かしらつながるだろうし、とても大きな意味があることだと俺は思う。


 それにしてもこの「国際的な普及」という言葉、こと野球に関してはネット界隈では必ずしも好意的に受け入れられているわけではないらしい。それが「野球が世界的に文化として広まることによる、日本球界の地位の凋落」を危惧する野球ファンによるものなのか、あるいはそれとは何か別の思惑があってのものなのかは分からないけれど、いずれにしても日本のネット社会における国際野球の話題では、決まってこの普及というテーマについて賛否両論が沸き起こる(それが暴走して野球とサッカーの煽り合いに発展するのも、今やお約束とすら言ってもいいかもしれない)。どちらにしても、現在進行形で支援活動に携わる団体を率いている身としては、この点については他人事ではいられないのが本音だ。


 もしこの仮定が間違っていたとしたら非常に恐縮なんだけど、もしかしたら普及否定派の人たちは例えばベースボールブリッジがやっているような活動を、こんなふうに捉えたりしてはいないだろうか。「野球を世界に広めるなんて言ってるのは、結局自分が好きなスポーツを他人に一方的に押し付けているだけ」「野球がメジャーじゃないところに野球を根付かせるなんてのは、ただの文化侵略でしかない」と。仮に実際そう思っているのだとしたら、それは大きな間違いだと声を大にして言わせてもらいたい。


 そもそもベースボールブリッジを結成したのは、俺がある日突然思いついて一念発起したからではなく、1年以上にわたって日本への移籍を支援してきたイラン人のアミール・カーリグ・サケット投手からの要望があったからだ。ケルン・カージナルスのディーラーの話を引き受けたのも、球団が資金的に裕福ではなくパブリシティも貧弱なことに悩んでいることを、所属選手であるメルリン・メンデル外野手から直接耳にしたから。どちらのケースも俺から「やらせてくれ」と頼みこんだというよりは、まず現場からの求めがありそれに俺が応じたという流れなんだ。


 アミールは俺が移籍支援をしていた時は、既にフィアンセがいたにもかかわらず「野球に集中したいから」と定職に就くことを放棄していた程の筋金入りの野球バカ(褒め言葉)だ。メンデルにしても「野球が存在しない自分の人生なんて、想像すらしたくもないね」と大真面目に口にしている。2人とも野球との個人的な出会いは遅かったけれど、一方でそのスポーツへの愛情や熱意のとてつもない深さにも特筆すべき点がある。イランやドイツにもこれだけ野球に入れ込んでいる奴らが現実に存在するんだ。


 彼らに限らず、どんなアスリートでも「自分の好きな競技は少しでも長くやりたいし、少しでもうまくなりたい。だからこそ少しでもいい環境でプレーを続けたい」と思うのは当然のことだ。それはあらゆるアスリートにとっての本能的なものだとすら言ってもいい。しかし、それぞれの国におけるスポーツのコミュニティの規模が限られていれば、たとえどんなに現場に熱意があろうともできることには限りがあるのもまた事実だ。その解決を少しでも手伝うためにこそ、俺たちのような支援活動に取り組む団体が存在する。現場の要請に応じて彼らが必要としているサポートをする、これを文化侵略と呼ぶのはあまりに語弊がありすぎやしないだろうか?


 日本がまだ戦国時代だった頃、ヨーロッパ諸国からは少なくない数のキリスト教の宣教師たちがやってきていた。その後には、アメリカ大陸には西部大開拓時代と呼ばれる一大ムーブメントも興った。どちらもその根底には、「未開の地に生きる蛮族に、俺たちの先進的な文化を伝えてやるんだ」という邪な考えがあったというのは有名な話だ。ただ、俺たちのように野球の普及活動に取り組む団体は、何も既存の他競技を駆逐しようなんて考えでやっているわけではないし(そもそも1人で複数の種目に取り組むのが普通な文化にあって、他競技と喧嘩することには野球側にも何らメリットはない)、そんなリスペクトを欠いた考えで自分たちの活動が上手くいくはずもない。結局最後は人と人との関係がものを言う話なんだからね。


 ベースボールブリッジにしても、メンバーの大半が他に仕事をしながら活動を続けている身では、文化侵略だとかそんな大仰な真似は不可能だ(もし万が一、メンバーの誰かが本当にそれを目指したいと言ったとしても、それを実行に移せるだけの頭数も経済的な余裕も今の俺たちにはない)。まずそれぞれの国の現場にいる人々が何を求めているのかを把握して、それに応じて自分たちができることを実現に向けて精一杯やる。それが俺たちのできることであり本来あるべき姿だと思う。


 だから、これは「世界的に野球が広まって欲しい」と願っている国際野球好きに対しても言っておきたいんだけど、もし自分でも何か「野球発展のために活動したい」と考えているのであれば、「自分が何をやりたいか」「どういう世界を実現したいか」という視点だけではものを考えない方がいい。何よりもまず大事なのは「現場がどのような課題を抱え、その解決のために何を求めているか」であって、そこと自分の考えがマッチしない限り「野球を発展させたい」という熱い思いは、いつまで経っても独りよがりなエゴにしかならない。ユニフォーム組と背広組の考えの不一致が不幸な結末を生んだ例なんて、この世の中にはそれこそごまんとあるはずだ。その二の舞を俺たちは演じるべきじゃない。


 今回のイラン野球のイベントを経て、俺たちベースボールブリッジはこれまでの活動を今一度見つめ直し、その反省を踏まえて今後の動き方をこれまでとはガラッと変えることになると思う。まだこれから中身については話し合うという段階だから、残念ながら具体的にこの場で示すことはできないけれど、おそらく色々な意味で「原点回帰」を目指すことになるだろう。ただ、たとえ表面的な行動の仕方が180度変わったとしても、「まず現場ありき」「プレイヤーズファースト」という根柢の思想の部分はきっと変わらないよ。それこそが、スポーツの世界においてフィールドの外側に立つ人間が決して忘れてはならないものだからね。