近所のネコと思って近づいたら「スカンク」、臭い一撃
これは災難ですね。主成分はブチルメルカプタンという物質だそうですが、匂いは無風でも半径1kmの範囲まで届くといいますからすごい威力です。どんな匂いなのか興味はありますが、あまり体験はしたくないですね。
スカンクの分泌液を使った兵器まで作られているくらいですから。
http://wiredvision.jp/news/200809/2008092420.html
戦争みたいなすごいロケット花火
ギリシャのキオス島での復活祭のお祝いは一風変わっています。この島には2つの教会があり、復活祭の日、ロケット花火をつかって両教会がとことん戦うのだそうです。その光景は本当に戦争みたいです。火事になったりしないのでしょうか。
http://www.metacafe.com/watch/1777407/two_rival_church_parishes_battle_it_out_with_an_amazing_fire/
逆さ宙づりで60時間の記録に挑戦
スタントマンでマジシャンのデービッド・ブレインさんは逆さづりの状態で60時間耐えるという挑戦を始めたそうです。いろんなことに挑戦する人がいますね。21日からやっているそうなのでそろそろ達成したのかな?
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http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/7630992.stm
ベルリンの壁が競売へ - 東西冷戦の象徴ベルリンの壁とは
ベルリンの壁のかけらが競売にかけられ一片46万円
にもなるそうです。壁の所有者は本来誰なのでしょうか。売却額は誰が受け取るべきものなのでしょうか。壁の大半は粉砕されて道路建設に使われたそうですが、取っておけばひとかけら46万円にもなったのにちょっともったいない気もします。もっとも貴重だからこそ価値が出たのだと思いますが。
1961年8月13日日曜日の朝、突然建設された壁によって家族と会えなくなる人が続出したといいます。ベルリンの壁はなぜ作られたのでしょうか。
第二次世界大戦において、ナチスドイツはソ連、アメリカ、イギリス、フランス連合軍に包囲されヒトラーが自殺、降伏します。その後、ドイツは各国によって分割統治されることになり、東部をソ連、西部をアメリカ、イギリス、フランスが統治します。ベルリン市は東部のソ連領に入っていたのですが、多数の人口を抱える首都であることから特別に共同管理ということになりました。
しかしソ連は共産主義、アメリカ側は資本主義ですから、政策は相容れません。ベルリンも東西に分けてそれぞれの政策方針で復興策を進めていくことになりました。ドイツを大きく東西にわけ、その東側にある首都ベルリンもまた東西にわけたのです。つまり、西ベルリンは東ドイツの中で孤立した存在になってしまいます。
ソ連は東ドイツに対し、共産主義的な政策を施していきます。共産主義ですから資本は国有化されます。工場主は工場を、農民は農地を政府に差し出さなくてはなりません。政府はそれらを統合し、巨大工場、巨大農園を作り、国民は労働者としてそこで働くことになります。ソ連は急ぎすぎたのでしょう。今までとはまったく異なるパラダイムに対しドイツ国民は戸惑います。そして西側への脱出者が殺到します。
この時点ではまだベルリンの壁は建設されていません。しかしすでに東ドイツと西ドイツの国境警備は厳しくなり各地に鉄条網が張り巡らされていました。東ドイツから西ドイツに逃れるもっとも簡単な方法は、東ドイツ内にある西ベルリンに入ることでした。西ベルリンからアウトバーンや鉄道を使って比較的容易に西ドイツに行くことができたのです。西ベルリンが西側諸国への窓口になっていたのです。
この窓口を通じて東側からは大資本家や金持ち、医者や科学者など高度な専門知識を持った人々が多く流出します。これに気づいたスターリンは西ベルリンを囲うように壁を建設することを決めます。実行は1961年8月13日の日曜日、作業員を大動員して急遽壁は建設されます。これがベルリンの壁です。よくテレビに写る壁は一枚のコンクリート壁のようですが、実際には東側、西側にそれぞれ3.5メートルのコンクリート壁が立てられ、その間100メートルほどには警備員、サーチライト、番犬、地雷、動体感知付の自動小銃などがすえつけられていたといいます。
表向きは西側から東側を守る「反ファシスト防護壁」ということになっていたそうですが、実際には小銃は東側を向いており、東側からの脱出者を許さないための施設だったのです。
ともかく、壁建設によって東西諸国の溝は埋めがたいものになりました。ここから第二次大戦後の冷戦構造が始まり、そして28年後の壁の崩壊は冷戦の終焉を意味します。まさにベルリンの壁は東西冷戦の象徴というわけです。
ソ連のスターリンが何を考え、どういう経路で自国民にとって牢獄のような壁を作るにまで至ったのか、今となっては想像するしかありません。しかし47年後に反ファシスト防護壁(東側の通称)が一片46万円で競売にかけられているとはスターリンとて想像だにしなかったに違いありません。
