ちょっとした反論 | 木下英範のブログ

ちょっとした反論

Chikirinの日記 「自然エネルギーか原発か」という議論の不毛


その4までのエネルギーの全体感については、今の視野の狭い議論では不毛で、もっと俯瞰して話をしなければならないということで大いに同意したのですが、その下を読み進めていくとなんとなく違和感が残りました。なぜ違和感があったのかずっと考えていたのですが、それはエネルギー源から実際に使うエネルギーへの変換装置の議論がすっぽり抜け落ちているためだとわかりました。


石油はそのままでは使えません。自然に湧き出している石油を偶然に発見し、火をつければ燃えるかも知れませんが、それだけでは殆ど役に立ちません。たとえば水車を回せないし、車も動きません。石油はその埋蔵場所・量を特定し、採掘して精製し、それを燃やしたり加工したりする装置によってやっと有用なものにに変換できるのです。


エネルギーを人間にとって有用なものにするには、この一連の変換装置が必要でなのす。たとえば石油ならば採掘から発電所までの装置です。太陽エネルギーであったら太陽光発電パネルであり、太陽熱発電所です。つまり、エネルギーの使用効率はその変換装置にも拠っているということです。


風力や太陽光などの再生可能エネルギーでは社会をまかないきれないということですが、今後変換装置の効率が上がらないと結論づけることができるでしょうか?タイムマシンに乗って50年後に行き、効率が上がっていない現実を見てきたのならば断定できますが、そうじゃないならば未来にどんなイノベーションが起るか予測はできないので、再生可能エネルギーの効率が未来に渡って上がらないとは断定できないでしょう。50年後の世界に太陽光でエネルギーの半分をまかなっている未来もありえると思います。その他にもマグネシウム とかいろいろな可能性があります。


石油が発見された当時、その有用性が予測できなかったのは変換装置の効率が悪かった、あるいはなかったからです。当時の人の気持ちになってみれば、なんだか知らないけど燃える水が湧き出しているところがある、でも量も限られているしこんなものは使い物にならない。石炭や水蒸気のほうがずっといいと。でもめげずに石油を掘って精製を試みた人がいたはずです。その人がいたからこそ今の文明があるのです。


もし、薪や水車を使っている時代に石油が発見されたとしたら、当時の人達はこう言ったはずです。


石油エネルギーの比率は、5倍から10倍がせいぜいであって、薪の3分の1以下、水車の10分の1に過ぎない。モノを作るには、大量のエネルギー、動力が必要であり、相当に効率のいいエネルギーでないと現代社会は維持できない。この点、薪・水車のエネルギー産出/投入比率は圧倒的であり、石油エネルギーで現在の社会を維持するのは無理。(質素な生活をすればいい、というレベルではなく、人口の大半が維持できない=死ななくてはならない。)


再生可能エネルギーの本当の未来について理解したい方は下記の文献を読まれることをお薦めします!読んだことないですけどね。

脱「ひとり勝ち」文明論


そんじゃ~ねぃ