新リーダー論
有能なリーダーが出てこないと嘆く向きがあるが、人々のこれだけ多様化した価値観、思惑を自信を持って代表できる勇気のある者はいないだろう。また選ぶ方も自信を持って選ぶことはできない。すべての分野に秀でた聖人君子はいない。我々はともすると全知全能なリーダーを捜し求めてはいないか。そもそもそんな人はいないのだ。価値観や文化が幅広く細分化した現代ではなおさらだ。しかしそれはさけられない変化だし、それでいいのだと思う。
我々はそれを克服する方法を考えねばならない。一人のリーダーが全員の利益を代表する時代は終わりを迎えつつある。しかしこれはリーダー不要論ではない。むしろ最強のリーダーの作り方である。
「アホで無能」な我々だが、一人一人には必ず得意分野がある。何か一つに特化していなくても、組み合わせればかなりのレベルになるというものが少なからずあるはずだ。それを収集し、表明できる技術、そして自らが社会に参加したいという価値観は醸成されつつある。
一人一人の得意分野は違うのだから、起こり来る諸問題に対してその場その場で最も適した人に任せればいい。誰が担当するのかはその場で手を挙げればいい。あたかも、飛行機の中で急病人が発生したときに「この中にお医者様はいらっしゃいませんか?」と呼びかけられて、手を挙げるような感じだ。複数人が立候補した場合はその場でアンケートを取って決めればいい。
誰もが民衆であり、(なろうと思えば)誰もがリーダーになれる社会。しかし今のところ政治家になるにはちょっと敷居が高い。それは政治家が担いすぎているからだ。高い供託金を納め、ポスターを作って選挙カーで叫んで、握手をして回るなんて何の意味があって誰が得をするだろうか?たとえば街路樹を一本どこに植えるか、これを決めるリーダーならば誰しも可能であろう。そういう単位でいい。それだけで自分や社会を見る目が変わるだろう。参加意識が芽生えるだろう。
有事の時に優れた才能を発揮する人が平時の時にも優れているとは限らない。環境は時間とともに変化するので「今」優れた人を選んでも3年後も同じ能力を発揮できるとは限らない。
その場に応じてすぐにリーダーを選べ、頻繁に変更できるシステム。そのほうが望ましい。つまりガチャピンを作るということである。中身が自由に入れ替えられるガチャピンこそが最強なのだ。そうなるとその実態はもはやリーダーではなく「専門家」である。
もう一国の利害をすべて担える一人のリーダーなど存在しないし、いらない。そもそもトップ権力、総理大臣や大統領などは民衆の代表者だ。ならば民衆の総意を集められるネットワークを手に入れた以上、代表者の必要はない。ネットワークで集計された民衆の意識と専門家、それだけでいい。細分化された価値観グループに応じて細分化された政策が必要になる。それは情報量から言って中央計画で補えるものではない。自分たちで決めるしかないのだ。
リーダーは我々全員である。最終責務を負うのも我々全員だ。それには直接民主主義やGov2.0といった取り組みをさらに進める必要がある。直接民主主義のベースができれば、求心力の中心としてカリスマ性のある象徴(アイドル)を置くのも面白いかもしれない。それはバーチャルなキャラクターでもよい。できれば歌がうまくて美しいほうがいい、そして、、まあいい。
昨今なぜ人々はリーダーを求めるのか。なぜリーダー待望論が台頭してくるのか。それは価値観が多様化し、他人の価値観を身体感覚として察しにくくなっているためであり、それが不安につながっているためではないか。
それでは何故価値観が多様化したのか。世界人口の増加ももちろんあるが、近代の「個人としての自由を求める」という意味のリバタリアニズムによって旧い組織体、共同体が解体されてきたからだ。その結果、気がついてみれば欲望丸出しの「個」がそこに置かれていたという構図だ。それがグローバルなITコミュニケーションにより混ざり合いカオス状になった。
我々が意思を表明するにはどうしたらいいか。それはまず情報収集をすることだ。興味を持ったことについて徹底的に調べる。身をもって経験してみる。蓄積した情報は意識下で熟成される。そして情報が一定量たまると自然に答えが出てくるものだ。そしてその意識をTwitterやらFacebookやら井戸端会議やらなんでもいい、発信するのだ。その発言の総意が世論を形成し、世の中を動かしていく。そうなる時代がもうすぐやってくる。
ただ、無意識を抽出するのはよいが、政策の選択は意識的に行う必要があると思う。我々は「自分が選択したんだ」という思いからモチベーションを発揮する生物であるから。
<参考>
ティム・オライリー特別寄稿:ガバメント2.0―政府はプラットフォームになるべきだ
【動画版】茶会ちゃんねる特別編: 東x白田の一般意思2.0について語る