森友文書問題の根幹は何か…ズサンなデータ管理、情報肥大と日本の中枢劣化 | 都内出張アロママッサージ 極上の深い眠り陽家

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森友学園国有地売却に関する財務省の決裁文書が書き換えられた可能性の報道をめぐり、国会が混乱しています。今国会では国が最重要法案と位置づける「働き方改革」でも、厚生労働省のデータに不備が見つかり、裁量労働制拡大が見送られる見通しとなりました。

 官庁だけでなく、民間企業や研究機関など日本の中枢を担ってきたさまざまな機関で、このようにデータの不正や不備、ズサンな文書の取り扱い問題が起こっています。これらの問題の根幹に何があるのでしょう。文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏が執筆します。

厚労省と財務省と文科省のズサンな「文書・データ」管理


厚労省や財務省のデータや文書が問題になっている今国会。なぜ官僚組織の情報の扱いで問題が相次いでいるのか。写真は参院予算委員会の安倍首相=2018年3月2日(写真:つのだよしお/アフロ)

 裁量労働制に関して政府が示したデータがきわめてズサンなものであったことが問題になって、首相はこれを「働き方改革」の法案から外す決断をした。

 明らかに厚労省のミスと思われるが、単純なミスだったのか、そこに意図的な操作や捏造があったのか、にわかには判断できない。官邸の意思に沿って都合のいいデータをそろえたとも思えるが、逆に、明らかにズサンと分かるデータを提出することによって法案成立を阻む意図が働いたという推測も成り立つ。なぜならこの改革は、経済団体の要望を入れるかたちで進められ、従来の厚労省の立場とは合わないところもあるからだ。

 そしてこのところ、例の森友学園問題が新展開を見せている。

 もともとこの疑惑の焦点にあった人物が、税金事務のトップである国税庁長官に出世したことに違和感があったが、今度は、事後に公文書を書き換えたという疑惑が浮上した。事実なら由々しき問題であり、野党は内閣総辞職を迫るという。書き換え前の文書の存在を巡って紛糾しているが、加計問題で時の人となった文部科学省の前川前事務次官の発言も、官邸の指示を示すメモのあるなしに関するものから始まった。

 どちらも中央官庁における文書とデータの扱いの問題なのだ。うがった見方をすれば、現政権に対する官僚たちの反撃ともとれる。

 これまでの政治問題は与党と官僚のタッグに野党が挑むかたちだったが、今回は、官邸と省庁、あるいは省庁と省庁、あるいは同じ省庁内部の軋轢として現れた。日本の中枢がギシギシと音を立てて軋んでいるのだ。

 筆者は、新卒一括採用、年功序列、終身雇用という日本社会の雇用習慣は、封建時代の藩のように個人を束縛する「家社会」の特質であると考えてきたので、裁量労働制が葬られるのは少し寂しい気がする。また官僚の個人的な忖度から始まった問題によって内閣が倒れるとすれば、久々の長期政権が持つ外交上の優位、日本経済のダイナミズムなどが損なわれるのではないかとも懸念する。

 野党とマスコミが、これを政局として扱おうとするのは当然であろう。しかしここではむしろ、官僚組織における文書とデータの扱い、そのズサンさに焦点を当てたい。その根底には、現政権の問題を超えて、日本社会における「情報の肥大」と「中枢の混乱」という文化的問題が横たわっているような気がするのだ

紙文書時代のツワモノは、電子データ時代のツワモノではない


森友学園土地売却の決裁文などについて答える財務省の太田充理財局長=2018年3月2日、国会参院予算委員会(写真:つのだよしお/アフロ)

 厚労省とデータといえば、第一次安倍内閣のときの社会保険庁における「消えた年金記録」の問題が記憶に新しい。税金にしろ年金にしろ、国民から預かったお金の記録をなくすということは、日本行政史上最大級の汚点であり、与野党逆転の最大要因はこれではなかったか。

 それまで、日本の官僚は優秀で、大臣がその省庁の仕事の詳細を知らなくても何とかなったのは、官僚の事務能力と資料の積み上げにより行政の連続性が維持されるから、とされてきた。それがこの事態である。今、日本の官僚機構に何が起きているのか。

 かつて、官庁のオフィスを覗いてみると、机の上にはたくさんの書類がのり、机の脇にはたくさんの書類袋が入ったダンボール箱が積み上げられていた。大量の文書を処理する能力に長けた日本の官僚たちは、その書類の山の中を生き生きと歩きまわっていたものだ。

 現在、官庁のオフィスの机の上には大きなデスクトップ・パソコンがのり、官僚たちは必死の形相でモニターとにらめっこして、マウスを動かしキーボードをたたいている。彼らはそのデスクトップに使われ、奉仕させられているようにさえ見える。モニターの向こう側には、公僕としての彼らの主人である「公権力」が連なっているからだ。

 一方、このサイトを運営する会社など、ネット系企業の社員は、平均的に年齢が若く、ラフな私服で、生き生きとノートパソコンを持ち歩いて仕事しているように見える。

 紙文書時代のツワモノは、電子データ時代のツワモノではないようだ。

 かつてコンピューターがメインフレームからパーソナルへとシフトしたとき、IBMの社員と、マイクロソフトやアップルの社員たちは「背広とジーンズ」に例えられた。日本の官僚たちは、紙文書が電子データへと転換しても、背広をジーンズに着替えるわけにはいかない。つまり時代に合わせた文化転換ができず、古い文化と新しい文化の相克に苦しんでいる。紙文書から電子データへの転換は、大宝律令以来の、日本の官僚文化そのものの大転換なのだ。そこに現政権からの圧力がかかる。その力に乗る者と抵抗する者とのあいだに強い軋轢が生じる。

肥大するデータ(情報)を検証できない科学研究の現場

 長いあいだ、論文の指導と審査にたずさわってきたが、近年の若い人の研究の傾向として、膨大なデータとそのコンピューター処理とその結論が、研究者本人の中で、うまく筋立てられていないことが気になっていた。

 そのデータがどういう条件で抽出されているのか、コンピューター処理のプロセスはどういう数学的アルゴリズムにのっているのか、その結果が示す傾向の学術的意味はどのようなものか、という理系の論文に求められる基本的な問いかけに答えられないのだ。

 われわれが教えられてきた科学的再現性、推論の整合性、帰納と演繹といった基礎的条件が等閑視され、データから結論までがコンピューターというエスカレーターに乗ったように導かれている。そこには、一つ一つ考えながら階段を上るという手順が見えてこない。

 理化学研究所のSTAP細胞問題、京大iPS細胞研究所のデータ捏造問題なども、研究を総括指導する者が、そのプロセスを確認できないことから起こったのだ。

 もちろんこれは研究者の資質に大きな問題があるのだが、論文の数や引用数や受賞歴などによってのみ評価され、専門家もその研究の本当の質を評価することができない状況である。

 情報社会といわれて久しい。厳密な理想条件を設定する自然科学の現場でさえ、急速に肥大する情報(データ)に、研究プロセスの確認検証が追いつかなくなっているのだ

データ管理によって人間力が失われる「ものづくり」の現場


民間企業でもデータの偽造や改ざんが相次いで起きている。写真は一連のデータ改ざん問題で社長辞任を明らかにした神戸製鋼の記者会見=2018年3月6日(写真:ロイター/アフロ)

 建築士が構造計算書を偽造した問題、杭打ち業者のデータ改ざん問題、自動車会社の燃費データ改ざん問題、無資格者検査問題、製鋼会社のデータ改ざん問題、新幹線の台車亀裂問題などは、日本が得意であったはずの、ものづくりの現場にさえ、基本となるデータと技術の関係を軽く扱う風潮が蔓延していることを感じさせる。明治以来、日本のものづくりを支えてきた東芝のような企業でさえ粉飾決算によってその企業存続が危うくなっている。

 こういった問題の根底には、情報社会と管理社会の進行による中枢の管理者と現場の技術者の意識の乖離が横たわっている。「データ・情報・管理」による意思決定が、生身の人間の脳と眼と手の力を奪っているのだ。ものづくりの現場から人間力が消えていく。

 しかしマスコミは、こうした問題が起きるたびに、管理の不十分と職務の怠慢を指摘するだけで、科学や技術の現場における本質的な問題を検証しようとしない。肥大する情報量を追いかけるだけで精一杯だ。

 現在、AIやビッグデータなどは産業界でも注目されている。

 筆者はこういった技術の可能性を高く評価している一人だが、それによって科学研究とその応用技術のプロセスがブラックボックス化することの危険性は無視できない。マスコミは、AIが人間の仕事を奪うことばかりを取り上げているが、AIの応用には、その分野ごとに膨大な研究開発を必要とするので、全体としての仕事量はむしろ増えるであろう。問題は、研究者や技術者が、肥大する情報(データ)の中で、知的主体性を失っていることなのだ。

 人間の知の展開に「情報―知識―叡智」というプロセスを設定するなら、現代社会は「情報が肥大し、叡智が縮小する」社会ではないか。

中枢混乱から中枢劣化へ


データの妥当性だけでなく、なぜ扱いがズサンなのか、何のためにそのデータを検証するのか、肥大になった情報に日本の中枢が振り回されている。写真は国会参院予算委員会=2018年3月2日(写真:つのだよしお/アフロ)

 建築も、外壁の傷や内装の剥がれなど、見れば分かる仕上げの劣化は修理が簡単であるが、基礎や柱や梁など、主体構造の劣化は、ちょっと見ても分からず、修理も難しい。

 今日の官僚組織に現れている文書とデータの粗雑な扱い、科学的研究におけるプロセス確認の困難、ものづくりにおける管理と現場の乖離、そして科学技術の問題を報じるマスコミの検証姿勢の欠如は、情報肥大によって、日本社会の中枢が混乱から劣化に進んでいることを示すのではないか。

 政治家と官僚は、累積する膨大な財政赤字に責任を取ろうとしない。民間企業はバブル時代の清算に辛酸をなめてきたが、政治と行政の組織と経費はバブル時代に肥大したまま、自己改革を怠っている。つまり、政治、行政、研究、教育、報道、批評といった仕事に関わる、日本の知的中枢が劣化しているのだ。優秀であったはずの現場技術者も、ついにその中枢の劣化に耐えきれなくなっている。

 スポーツにもいえる。大相撲でも冬季オリンピックでもレスリングでも、選手たちの活躍は目覚ましいが、指導的立場にある人間とその組織としての協会には問題がありそうだ。日本衰退の原因は、筋肉にではなく、中枢にある。

 江戸幕府が、黒船の文明力と尊王攘夷の炎に耐えられなくなって瓦解したのも、太平洋戦争において、大本営が現場の独走に引きずられ、戦略もないまま、神がかりに頼ったのも、中枢の混乱と劣化が、ある種の外力を契機として社会崩壊に至った例であろう。

 部分的外面的劣化なら修理が容易だが、「中枢劣化」はほとんど解体して建て直すほどの国民的覚悟が必要だ。まず国会と行政から始めるべきだろう。

 大臣を辞任させ、あるいは内閣を倒せば済む、といった問題ではない。

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