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エッセイを書くのは平気なのに、SNSに書き込むのはなぜ恥ずかしいのかーー。『オール讀物』5月号より酒井順子さんの人気連載「センス・オブ・シェイムー恥の感覚ー」を転載します。
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近年、人々の“恥の感覚“を激変させたものといえば、それは他でもないインターネット。特にSNSというシステムに多くの人が接するようになってから、恥の感覚は激変期を迎えたのではないでしょうか。
それは、恥の感覚が「変わった」と言うよりも、「掘り起こされた」と言った方がいいのかもしれません。SNSによって、「実はあの人とこんなに恥の感覚が合わなかったとは」とか、「実は私ってこんなに恥ずかしがりやだったのか」といった発見があった人が多いのではないか。

イラストレーション・唐仁原多里
私が初めてフェイスブックに参加したのは、日本においてフェイスブックがそれほどメジャーではない頃でした。海外に住む友達から、よくわからないけれどリクエストのようなものが届いていて、「これはなに?」と思いつつも登録してみたら、意外に面白かった。
とはいえ私、フェイスブックに登録はしているものの、自分で何かをアップしたことはありません。SNSに書き込むということが、恥ずかしくてできないのです。
ここで物書き業に就く私の羞恥心について、少しご説明しておきましょう。エッセイを書く時、私はほとんど恥というものを感じることがありません。シモ関係のことであろうと、自分の性格の悪さについてであろうと、恥じることなく記すことができるのです。
それを読んだ人からは、
「よくあんなこと書けるね」
「恥ずかしくないの?」
と聞かれるわけですが、
「恥ずかしくないんですよねー」
としか答えようがない。
本来はシャイな性格であるはずの私、なぜこと文章、それも不特定多数の皆様が読む可能性がある文章においては、何をさらけ出しても恥ずかしくないのか。……と考えてみますと、文章の向こうにいる方々が「不特定多数」だから、なのです。
文章を書くということは、自らの精神がまとっている衣服を脱いで裸を晒し、それどころか内臓やら排泄物まで人様にお見せするような行為です。が、お見せする相手がたとえ「多数」であろうとも「不特定」だと、その感覚はストリッパーのような感じ。
ストリッパーにとって人前で裸になることは、仕事です。観客が呆けたように喜ぶ顔を見て、やり甲斐も感じることでしょう。ストリッパーになったことはありませんが、彼女達の気持ちが、私は何となくわかる気がするのです。そんなに喜んでくださるなら、いくらでも私の裸でも内臓でも見て、という気分ではないか。
しかしストリッパーの方であっても、自分の友達や家族や恩師といった知り合いばかりが集まっているところで裸になるのは、躊躇するのではないでしょうか。たとえばホームパーティーで、
「脱いでよ」
と言われても、快諾はしない気がする。
不特定多数の観客にとってのストリッパーの裸は、「おっぱい」とか「性器」といった記号のようなもの。しかし友人知人といった特定少数に晒す裸は「○○ちゃんのおっぱい」「○○ちゃんの性器」と、急に個人のものとなるのです。
精神的ストリッパー感覚を抱く私は、同じような理由から、フェイスブックに書き込むことに躊躇します。フェイスブックは、基本的には自分の知り合いとだけつながるSNSです。アップした写真や文章は、フェイスブック上の「友達」にだけ、公開されることになる。
エッセイを書くという行為を「裸になるようなもの」と捉える私にとって、フェイスブックに何かを書くということは、友人知人の前で服を脱ぐのと同等の行為なのです。「そんな恥ずかしいことができるわけがなかろう」と、思うのでした。
しかしたまに、フェイスブックにおける人様の投稿に対して、どうしても何らかのコメントを書き込まなくてはならない状況が、やってきます。「おめでとう」とか「がんばって」とか、ただ一言書き込めば義理は立つのですが、自意識過剰すぎるとは思いつつも、その一言を書くのがどうしても恥ずかしい。やっと書いても、アップするためにポチッとするのがこれまた恥ずかしく、崖から飛び降りるくらいの勇気をふりしぼってやっとポチッとした後は「どうしよう……」と不安が渦巻き、脇にはいやーな汗が。
エッセイにはどれほど大量に恥ずかしいことを書いても平気なのに、SNSにはたった五文字を書くのに息も絶え絶え、とはこれいかに。自分でも不思議に思うわけですが、この感覚はSNS以外にも当てはまるのです。読者の顔が特定される文章、すなわち手紙やメールにおいても、私は素直に自分を出すことができません。書いてみるとほとんど定型手紙文だったりして、面白くないことこの上ない。
友人知人達を見れば、フェイスブックに色々なことをアップしているのです。こんなものを食べた。こんな場所に行った。この人と会った。こんなものを買った。……他人の生活を覗き見しているようで、読んでいるととても楽しい。フェイスブックを通して旧交を温めたり、イベントが企画されたりといったこともあるようです。
フェイスブックが盛り上がってきた頃は、そんなわけでフェイスブック祭りの感があったものでした。懐かしのあの人この人から友達申請があったり、フェイスブックのつながりによって、旧友達と久しぶりに顔を合わせることになったりと、旧友再会ブームとなったのです。
「これもインターネットのお陰ねぇ」
「昔だったら、一生会えなかったかもね」
と、友人と語り合ったものでしたっけ。
しかしフェイスブックによる旧友再会ブームは、次第に沈静化しました。旧友と久しぶりに会っておおいに盛り上がっても、二回目以降は、話すネタも次第に無くなってくる。「私達は、やはり離れるべくして離れたのであるなぁ。インターネットで無理やりつながらなくてもよかったのではあるまいか」という気持ちに。
さらには、最初は面白がって見ていた皆の投稿にも、次第に恥ずかしさを覚えるようになってきたのです。この人って、こんなにポエムみたいな文章を綴る人だったんだ、とか。うわっ、自分の子供の通知表をアップしてるよ! とか。まさかのビキニ写真アップ、見たくなーい! とか。
私の場合、フェイスブック上の「友達」は、実生活上での知り合いでもあります。が、実生活上とSNS上とでは、微妙に人格が変わる人がいるのです。SNS上で、今まで知らずにいた他人の精神のとある部分を覗き見すると、その人の裸をチラ見してしまったようで、恥ずかしさがこみ上げてくる。
恥ずかしい系の投稿が多い人は、実生活でもそれほど仲良しというわけではなかったのでよかったのです。が、もしも親友がフェイスブック上で意外な素顔を丸出しにする投稿を連投していたりしたら、かなりショックを受けることでしょう。夫婦やカップルはSNSでつながらない方がいいと言いますが、それは私生活が丸見えになってしまうからということのみならず、それまで蓋をされていたセンス・オブ・シェイムの相違が明らかになる可能性があるから、なのかも。

イラストレーション・唐仁原多里
フェイスブックで感じた様々な恥ずかしさの中で、最も高頻度で感じたのが、「この人って、こんなに自慢好きだったんだ……」という恥ずかしさでした。普段の生活の中では、特に自慢しいという印象ではなかった人が、フェイスブック上では自慢欲がダダ漏れになっていたりするではありませんか。
たとえば、手づくり料理自慢の主婦。少し手の込んだ凝った料理を作った時、画像をアップし、皆に「いいね!」と言ってもらいたいという気持ちは、よくわかります。しかしその頻度があまりに高かったり、あまりに料理に手がかかっていたりすると、微妙な気持ちに。
ケーキを焼いた、シチューを煮込んだといったことから梅干しを漬けた、味噌を仕込んだまで、様々な料理の自慢が一日に何度もアップされている様子は、何かその人の中にぽっかりと開く深い穴を示すかのよう。その料理を食べたわけでもないのに、食傷気分になってきます。
しかし世の中には良い人がいるもので、何度料理画像がアップされようと、
「すごーい、プロみたい!」
「旦那様は幸せ者ね♡」
といったコメントとともに「いいね!」が押される。するとそれを励みに、投稿者はますます料理に励む……。
そこに見えるのは、いわゆる満たされぬ自己承認欲求というものです。かつての主婦は、自分の料理を家族が美味しく食べていることに幸せを感じていました。たとえ夫や子供が、
「やっぱりママのごはんは世界一だね、毎日こんなに手の込んだ料理を作ってくれてありがとう!」
といった褒め言葉を一言も述べずとも、皿が空になるだけでも、主婦にとっては一種の「評価」だったのです。
しかしSNS時代に突入し、彼女達は新たな地平を見ました。SNSにアップすると、今までは誰からも評価されなかった「料理」という家事が、他人から褒めてもらえるのです。家族以外の人たちからの賞賛、礼賛、絶賛は、仕事への評価をされ慣れていない主婦を、うっとりさせました。彼女達の心の乾きを、「いいね!」やコメントが潤したのです。
主婦ばかりではありません。決まりきった世界の中で既に長いあいだ生き、自慢欲求を封印してきた中年にとって、フェイスブックは欲求を解放できる楽園と化しました。
たとえば、中年サラリーマン。学生時代と比べて二十キロ太った身体をどうにかしようと、ランニングと筋トレを始めたらダイエット成功。一桁の体脂肪率を目指しつつある自分の上半身の裸体を、日々フェイスブックにアップ、とか。
お前はGACKTか。……というボタンは無いので「いいね!」も押さずスルーするわけですが、やはり世の中は善意で満ちているのであり、一定数の「いいね!」が。他にも、交友自慢にモテ自慢、学歴自慢に仕事自慢、「昔はワルだったんだぜ」自慢に善行自慢……と、フェイスブックでは自慢の花が満開となりました。
家族自慢にしても、「夫から大切にされてる自慢」やら「親孝行自慢」やら、シンプルに「子供自慢」やらと、パターンは様々です。
「両親の結婚記念日は、いつものオークラの桃花林で。子供の頃から食べている安心の味です! 92歳のおばあちゃまからひ孫まで、四世代が揃いました」
などと、親孝行自慢にお金持ち自慢やいいウチ自慢が絡まったりと、複合自慢という手段もあります。
フェイスブックの普及により、様々な自慢が堰を切ったように溢れ出てきたのを見て私は、
「みんなこんなに自慢したかったのか!」
と驚きました。フェイスブックという仕組みは、皆の自慢したい欲求を、おおいに刺激したようなのです。
「別に自慢したかったわけじゃないわ。桃花林でのお食事会が自慢だなんて、あなたがひねくれているのよ。私はただ、日々あったことをそのままアップしただけ」
と言う人も、いるでしょう。が、そこには自慢慣れしていない人の危うさがある。
全てのエッセイは自慢である、ということをお書きになったのは井上ひさしさんでした。それを読んで、「その通り!」と膝を叩きまくった私。「こんな変わった体験をした」であっても「こんな失敗をしてしまった」であっても、それはある種のリア充自慢。「私はこんなユニークなものの見方ができる」「こんな教養を持っている」……と、確かにエッセイというものは何をどう書こうと自慢になるのであり、私が今書いているこの文章も、もちろん自慢。

イラストレーション・唐仁原多里
エッセイを書くことを仕事とする者は、日頃から「いかに自慢だとバレないように自慢するか」に心を砕いています。だからこそ、他人の自慢にも、
「あ、自慢」
と敏感にならざるを得ない。自慢しいほど、他人の自慢にも目ざといのです。
そんな私がフェイスブックを見ると、そこは初めて自由に自慢できる場を得た自慢のアマチュア達が、「他人からどう見られるか」を全く気にせずに、無邪気に欲求を発散させる無法地帯、となっていました。それまで、プロによる手練れの自慢ばかり読んできた私にとって、アマチュア達のフリーダムな自慢は、本当に新鮮だったものです。生き生きと自慢をする人たちに感じる激しい恥ずかしさが反対に快感となり、一時は夢中になって見ていたものでしたっけ。
特に我々中年というのは、大人になってからネットやパソコンに接するようになりましたから、若者のようにネット自意識が発達していません。自分の欲望の赴くままに自慢するので、やたらと連投する人、思いの丈を長文に託す人、イデオロギーを前面に押し出す人、明らかにフェイスブック中毒になっている人など、珍獣がそこここに。
リアルな生活においては、そこまで自分の内奥をさらけ出す場面は既に無い我々。だというのに、今やパソコンやスマホで、気軽にそして合法的に、珍獣達の奇行・奇癖を心ゆくまで覗くことができるように。その何たる恥ずかしさ、何たる面白さ!
中には、周囲が引くくらいの自慢っぷりの人もいたのです。しかし、
「『いいね!』の数の十倍、『嫌だね!』と思っている人もいるっていうから……、自慢の仕方を、少し考えた方がよいのでは?」
とは、いくら仲良しでもなかなか言うことはできない。陰で、
「あの人のフェイスブックの投稿って、ほぼ百パーセント、自慢だよね」
「けっこうヤバい」
と話すことはあっても、本人に対しては何も伝えず、それどころか陰で「ヤバい」とか言いながらフェイスブック上では、
「すごーい、うらやましーい」
などと、さらなる燃料となるコメントを投下する人もいたのであり、本能のままに自慢を続ける人は野放しになっていたのです。
が、しかし。時が経つにつれて、面白いくらいの自慢しい、という人は減少してきました。フェイスブックが盛り上がった初期の頃は、自慢と意識せずに自慢をたれ流していた人も、次第に、
「あ、これまずいかも」
と気がついたのかもしれません。はたまた、誰かからやんわりと注意されたことがあったのかも。
さらには、初期の頃は皆が自慢の素人だったのが、時の経過とともに次第に自慢テクが向上してきた、ということもあります。かつてはテレずに「オークラの桃花林」と書いていた人も、見る人が見れば桃花林という画像をアップしつつ、わざわざ書かずに「中華料理店」で止めるようになってきたり。自分のビキニ姿や上半身裸姿をさらすような無防備な中年男女も、いつの間にかいなくなってしまいました
経験は人を育てるものなのね。……と思いつつも、私はどこかで寂しい気持ちを持っています。他人の生々しい自慢欲求を、あれほどまでに豊富に目にしたことは、今までなかったのだから。
日本人はそもそも、我褒めを恥とする国民です。和をもって貴しとなしていたわけで、
「俺はこんなにすごい」
「私ってイケてる」
と皆が主張していたら、まとまらない。誰かがそのような態度をとったら、白眼視したり無視したりすることによって、「その態度をやめろ」と言外に伝えたのです。
和とか輪を構成するメンバーが相互監視することによって、とっぴな人が発生しないようにするという我々の同調圧力は、強力です。我々はネット無き時代、他者から嫌われず、無事に生きていくために自慢を我慢していたのではないか。
そこに登場したSNSは、自慢慣れしていない日本人の心に火を点けました。同時にその頃、自己責任の時代というものがやってきて、自らの実力を素直にアピールしてもいいのだ、という気運も高まってきます。能ある鷹は爪を出せ、というような。
かくして自慢バブルの時代がやってきたわけですが、やはりバブルは長くは続かない。フェイスブックにおいても、あの自慢もこの自慢もまずいらしい、と皆が察知して、
「あれ、ちょっと前まではかなり赤裸々な自慢をしていたあの人が、最近はすっかりご無沙汰になっている……」
と気づいたりするのです。
最近は面白い自慢をあまり見ることができないので、フェイスブックも覗かなくなった私。やはり日本人は、我褒めには向いていない。そして日本人の強固な恥の感覚は、SNSという黒船をもってしても破壊することはできなかったのだ、と言えましょう。
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