ダンス講師のフィギュアスケート鑑賞記 -15ページ目

ダンス講師のフィギュアスケート鑑賞記

フィギュアスケート五輪連覇の伝説の王者・羽生結弦選手を独自の視点で応援させていただくことを主な目的とするブログです。
フィギュアファン歴20年以上。

衣装展示に寄せて

 

2018-19シーズン篇  フリー

 

 

 

『Origin』をシーズン序盤に見た時、僭越ながら私は疑問を感じた。

「ニジンスキーの要素はどこにあるのか?」と。

憧れのプルシェンコ氏へのオマージュとはいえ、『ニジンスキーに捧ぐ』の曲を使用するからにはロシアの舞踊神を彷彿とさせる振り付けを入れてほしいと思った。なぜならば、そのほうが審査員からの高評価を獲得できると私は思ったからである。

振付を担当したシェイ=リーン・ボーン氏の仕事の出来栄えに、僭越ながら疑問を持った。ネイサン選手の振付も同時進行であったが故に、羽生選手の振付が疎かになっているのではないか?と私は疑念を持ったのだ。

少しだけ足の動きを停止して『牧神の午後』『ペトリューシカ』のポーズを取るだけでいい。簡単なことだ。何故、それをしない?

 

 

これについてはオマージュ元のプルシェンコ氏も日本メディアに語っている。私もこの意見に同意する。

「私はまさにニジンスキーの腕の動きや振り付けを付け足した方がいいと思う。残念ながら(羽生には)今、ニジンスキーのその振り付けと(特徴的な)ポーズはない。というのもヴァーツラフ・ニジンスキーというのはまるっきり独創的なダンサーだから。彼はバレエの歴史の中で初めてクラシックからアバンギャルドへの移行をした人物と言える。彼は他とはまったく別のポーズや考え方を持っていた、そう変則的な。正直言うと、ユヅにこれらのニュアンスを自分のプログラムに付け加えてもらいたいんだ」

https://the-ans.jp/news/43250/2/

 

 

 

 

さらに言えば、『牧神の午後』でニンフが落としたヴェールに横たわり性的な動きをしたニジンスキーの振付(SOI2021八戸公演オープニングの登場シーンでの腰の動きがほぼそれに該当する)が物議を醸したように、ポーズを取るだけではなくムーヴメントを取り入れて、プルシェンコさんの原作を超えていくプログラムを私は密かに期待していたのだ。

 

スポーツ競技において「芸術か卑猥か」という議論の対象となることが許されるのは、現役選手として最高の肩書を持つ者だけであろう。五輪連覇中だからこそ、羽生選手は演技面で革新をもたらす資格があったはずだと私は思うのである。しかし、羽生選手はその権利を行使しなかったのだ。才能も資格も、どちらも持ち合わせているのに。なぜ?

 

小説家の永井荷風(1879-1959)は、原曲である『牧神の午後の前奏曲』について次のように述べている。

「詩章にある通り、「獅子里の海辺、静かなる小石原」に暑き日の輝く夏の午過、腰より下は獣の様して、髯深いフォーンとよぶ牧野の神が、昼の夢覚めて、肉美しいナンフ(女神)と戯れたは、過ぎし現実の歓楽であつたか、或は覚めたる夢の影であつたか、と思迷ふ。夢と現の思出は入り乱れて何かとも弁じ難くなつた。縦笛(オーボワ)の音一際高く、緑深き牧野の様を思はせて、オーケストルは一斉に乱るゝ思ひと、捕へんとする慾情の悩みに高り狂つたが、次第に…(以下略)」

弊ブログは論文では無くひとりごと日記なので、論文のように整える気は無い。ただ、もしも永井荷風がニジンスキーの『牧神の午後』を観る機会があったなら、どのような言葉で賛辞を表現しただろうかと、私は思いを馳せるのである。

 

スポーツ競技の演目に、バレエ・リュスやニジンスキーについての海外文献まで研究することを求めるのは酷であることは理解している。だがジャンプだけでなく、演技面においてもプルシェンコ氏の原作を超えてほしいと私は期待していたのだ。それ故にシーズン当初、私はやや落胆したのだった。恐れ多くも、審査員から高いPCSを獲得出来ないのも当然とすら思った。審査員もフィギュア界も、五輪連覇の王者には演技面での変革を期待するがゆえに、求めるハードルが高くなったのではないか。

 

 

 

 

 

しかし、2019世界選手権フリーを見て、私は衝撃を受けた。

質の高さを備えた高難度ジャンプ。

ポール・ドゥ・ブラの美しさ。

そしてトランジションの濃さ、後半に次々と畳み掛ける連続ジャンプの数々…。

呼吸困難で倒れて死亡するまで踊り続けるつもりか?

氷上で死ぬつもりか?と、私は非常に心配した。

 

 

だが、それこそがニジンスキーではなかったか?

彼の舞台の鮮明な映像は発見されていない。しかし残された写真の数々を見るだけでも、憑依型の演技の才能・両性具有的な独特の魅力・高度な跳躍力・カリスマ性は伝わる。そしてワツラフ・ニジンスキーは精神病の一種である統合失調症を発症したことでも有名だ。羽を持っていた天才は、地上世界を上手に生きる事が困難だったのだろう。

バレエ・リュスの天才ダンサーの狂気と美を、羽生選手が表現するoriginの中に、私は確かに見たのである。

フィギュアスケート競技において、これ以上の芸術的な表現方法があろうか。

 

 

確かに、立ち止まって『シェエラザード』『牧神の午後』のポーズを取るだけなら誰でも出来る。

しかしフィギュアスケート競技における表現力とは、あくまでもスケーティング技術やジャンプ技術に基づいているのではないか。それを羽生選手によって見せつけられた気がした。

 

 

そう、羽生選手は五輪連覇直後、次のような言葉を残している。

「もし、羽生結弦が4回転半、5回転を入れた場合は、それを確実に表現の一部にします。僕のスタイルは、そこ。僕がフィギュアスケートをやっている理由はそういうところにほれ込んだから。難易度と芸術のバランスは、本当は無いんじゃないかなと思います。芸術は絶対的な技術力に基づいたものであると僕は思っています。」

https://www.nikkansports.com/m/sports/news/201802270000674_m.html?mode=all

 

 

 

『origin』はフィギュアスケート王者・羽生結弦の美学の結晶と言えるだろう。

残念なのは、ジャンプがノーミスでなかったことだ。試合なのだから。

だがこのプログラムは元々「試合で勝つためのプログラム」として作られていなかったと私は考えている。振付を担当したシェイ=リーン氏に僭越ながら質問したいと私が考えたのは、その点である。

 

羽生さんはダンスール・ノーブルとしての才能を持ちながらも、幼少期からバレエを習得する機会に恵まれなかった。才能がありながらも謙虚な羽生選手は、分かりやすいポーズをあえて取り入れないことによってロシアの舞踊神への敬意を表したのかもしれない。

 

間違いなく、王者羽生結弦の『origin』は、私にとって氷上のニジンスキーだった。

 

 

 

 

 

 

 

※本記事はあくまでも私の意見であり、演技を見た人によって感想は異なると思います。

※プログラムを持ち越した2019-20シーズンについては②へ続きます。