皆様こんにちは。
昨日は、予約投稿までして記事を公開したのに、
そう反響もなかった、
愚痴聞きカウンセラー作家の、心笑亭 杉のです。
その中。
ある一人のお方から、ご質問をいただきました。
「産めないと診断されても、「産める」と信じ切れたのはどうしてでしょうか」
これね。
正直、これを簡単に言葉で表すことができたら、
人が抱える問題は、すべて、ノープロブレムで解決出来るであろう、とてつもなく画期的事件。
それほど、難しい質問なのだ。
そして、
ここで、「私は産める」と、おまじないのように潜在意識に働きかけるといい、と答えてしまえば、
私の体験からしてみれば、まったくの嘘になってしまう。
つまり、その頃の私はまだ、心の勉強もしていなければ、「潜在意識」なんて存在もなにも知らなかったわけで、
今、みなさんがよく見聞きするであろう解決策は、何一つ施していないのだ。
後で振り返ってみて、
「あらま、自分、そこクリアしとったがな」
てなぐらいである。
しかし、たった一つだけ、「それはデカかったよな」と思われることがある。
それは、
「なにも、知らなかったこと」
そう、
その頃の杉のは、
とんでもなく「阿呆」だったのだ。
不妊でこれだけ悩んでいる人がいることすら知らなかった。
そして、
そのこと(診断)が、女性にとって、どれだけ辛いことであるということも、
理解していなかったのだ。
「風邪ですね」
ぐらいの診断と、そう違いはないと思っていたのだ。
とんでもない「阿呆」さ加減である。
まあね、まだ中学生だったこともある。
その後、一度高校の時、大きな病院でも同じように診断されたのだけど、
その頃もまだ、女性として目覚めていたわけでもなく、
もろ体育会系女子校生としては、
「結婚」や「出産」を、目の当たりにしていなかったこともあるだろう。
結婚前同棲を始めていたのだけど、
実際、そのときはまた「結婚前に赤ちゃんできてもなんだかな状態」な時期でもあり、
「赤ちゃんができない可能性大」な自分の方が、好都合だったこともある。
案の定できなかった。
二年ほど避妊しなくても、全くできなかった。
ところが、結婚が決まり、「そろそろ真剣に考えなければならないのだろうか」と、思っていた矢先に、ひょいっと妊娠。
「なんや簡単にできたやん」
ここにきて、その程度の喜びである。
おそらく、私が「赤ちゃんが産めない身体」であることを真摯に受け止め、心からそれを待ち望んでいれば、その二年間は、おそろしく長い期間だったと思われる。
そうであれば、
「まだ赤ちゃんできんの?」
と毎日のように聞かされていた母親の言葉も、針のむしろのように感じていたと思う。
だけど、「阿呆さMAX」の私にとって、
その不妊で悩む女性にとっては一番辛い、母親の言葉も、「風邪まだ治らんの?」ぐらいの認識でしかなかったのだ。
「ったく…いつか治るがな」ぐらいの抵抗感。
そしてまた、「治りゃ産めるがな」ぐらいのお気楽加減。
そう、無意識に杉のは、
「それを私の人生の問題にしない」
と、選択できたのだ。
つまり、まったくそこに問題意識がなかったということ。
いっても、自分の問題って、
「自分が問題として受け止めると選択して初めて問題になる」
わけで。
人って、こうやって、「自分の問題」すらも、選択により決めているのだ。
こう考えれば、「阿呆」って幸せだね。
ほんと、「阿呆」になりきると、不幸なんて感じないね。
しかし、このお気楽加減でいられた理由には、もう一つ私にはラッキーだったことがある。
それは、
「女性っつうものは、ほっといても赤ちゃんが産める」
と、揺るぎのない自信を持っていたことだ。
だって、不妊症って言葉を全く知らなかったのだから。
正直、ここの説明も難しい。
まるで、幼稚園児の発想しか持ち合わせていないのだから。
耳が長ければ、ウサギ。
手足がなくてくねくね動くのが、蛇。
鼻の下が長ければ、猿っぽい。
そして、
赤ちゃん産むのが女性。
そしてまた、
「赤ちゃん産めなくても、(産まなくても)おっぱいがあれば女性」
道徳心とか、ジェンダーフリーな世の中や、偏見など、
そういった高尚な思考もなく、純粋なまでに、単純な思考回路。
ただただ、それだけだったのだ。
まさに、「阿呆」。
今思うとね。
こうして、心の勉強、社会的な倫理、それは、人として生きる上ではとても大切なことだけど、
幸せに生きる上には、何一ついらないものなのかもしれない、と思ったりする。
「大きくなったら、私はお母さんになる」
女性なら、一度は幼い頃必ず口にした言葉。
そして、
誰もが、そうなることを信じていた。
子供たちは誰も、その言葉を聞いて、
「間違っている」
「それだけじゃないでしょ」
なんて言わない。
偏りのない生き方。
それは、
子供たちのほうが知っている。
でも、大人になり、
「産めない身体を持つ女性」の存在を知ることになる。
そしてまた、
「女性は、母親にならなければならない」
「女性は子供を産み育てるもの」
という、社会的風潮から、
いつしか「そうあるべき」と受け止め、自分の中で問題視されていくのだ。
その中で、
「いや、そうじゃないやろ」
「産めない人を傷つける」
「産まない選択もある」
という「そこに拘るな」という声が大きくなる。
しかし、
そういった社会的倫理ができることこそが、
余計に、
「マイノリティー」に押し込めていくことになる。
みんな、それでいいのに。
産めなくても、
産んでも、
産めないと言われて、それでも産みたいと戦っても、
産めないなら、産まない人生を選択しても、
産めるのに、産まない選択をしても、
みんなそれでいいのだ。
その中で、
不妊を解消する方法と聞かれたら。
「女性とは、子供を産み育てるものである」
「子供を産み育てることができない(しない)女性もれっきとした女性」
この両極端な思想をどちらも受け止める感覚。
そこを意識して欲しいというしかない。
なんといって説明すればいいか難しい。
少し前、
「女は産む機械だ」
そんな、世間の女性を一斉に敵に回した発言をした政治家がいる。
「機械」
そう、人間は機械じゃない。
そこに対して反発する気持ちは良くわかる。
だけど、
「産む機能を持った生き物」
には間違いないのだ。
それを、なんの屁理屈もなく受け取る心、といえばわかってもらえるだろうか。
「それだけが女性じゃないわ」
とか、
「産めない人は女性じゃないの?」
とか、
「そのために生きてるんじゃないわ」
とか、
「男性、女性なんて関係ない」
とか。
そんな屁理屈はどうでもよくて、
ただ、
人体図鑑に書いてあるその事実を、そのまんま受け止めるだけのこと。
その人が産めるかどうか、ではなく、
その人が、産んだ、産まない、が問題ではなく。
女性とは、そういう生き物である。
ということだけを純粋に受け止めること。
子供たちが、それをそのまんま受け止めているように。
逆に、それができればね、
産めない人がいても、
産まなかった人がいても、
その人(自分)が、女性であることも自然と認められていくのだ。
不思議だけどね。
ここ杉のよくわからんけどね。
だけど、
一つの偏りを修正することで、
それと繋がるもう一方の偏りも、自然と修正できることはなんとなく理解できる。
たとえば、
真ん中を軸にしている一本の棒のどちらかを水平に直せば、その逆も、勝手に水平になるという、単純な仕組み。
それが、「不妊で悩む女性が、自分の女性性を認める方法」だと思うのだ。
そうして修正していく中で、
きっと、子供を産む産まない、で悩む日々から開放されるのではないだろうか。
そこをね、少しずつ修正していこう。
そして、
産めない理由を探る毎日をやめて、
頑張るのもやめて、
そんなもん、どっちゃでもええがな。
産むっつったら、産むがな!
産めなくても、知ったこっちゃないがな。
と、笑える日が来れば、なにかが変わるかもね。
杉のが、二人目の子を諦めて、「まいっか」と働き始めるとすぐ妊娠したように。
難しいけどね。
普通、みんな杉のみたいに阿呆じゃないもんね。
つっても、
だけど、そんな思考一切なく、
つまり、
「女性は子供を産まないと女性じゃない」
みたいな偏ってるくせに、
簡単に子供を産んじゃう女性がいるから話がこじれてくるのだけど、
きっとそういう人もね、
「単純に信じていられた」からだと思うんだよね。
なにも問題がなかったから。
だけど、そんな人も、別のことを人生の問題として選択し、今、悩んでいるのだろうね。
人は、自分でその問題を問題として扱うことを選択している――
そのことが理解できたとき、
きっと、
どんな問題も、あっという間に解決するんだと、ここ最近妙に身にしみている杉のです。
今日は、コメント欄封鎖します。
また明日。