「発信する!尚禮舘空手を沖縄から」


師 渡口政吉先生の沖縄本来の文化としての「尚禮舘空手」を約束の地「沖縄」に還す為に道場を設立し発信する活動しています。


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皆さんこんにちは

尚禮舘事務局代表 伊覇@ryoumikuniです。


今日は比嘉世幸先生と渡口先生の関係について書いていきます。



尚禮舘ストーリー3




1947年


「比嘉先生!私の家にいらっしゃって下さい!芋ぐらいならなんとか差し上げれますから…」


そういったのは渡口先生の方からだった。



アメリカ占領下で軍の作業しか仕事がない時代。

48歳になる比嘉先生には仕事がなかった。


那覇市楚辺にあったアメリカ軍の湾岸作業隊に勤めていた長男を頼りにカバヤーグワー(テント小屋)で暮らしていた。


ここで少し比嘉世幸先生と渡口先生の関係についてふれておこう。

師宮城長順先生は眼光鋭く英雄的な存在だったが

比嘉先生は、普段は大声を出した事を見たものはなく無欲で人生を達観したお坊さんの様な存在だったという。小学校の教員から警察官になり1931年から道場を開設し指導された。 


16の時に渡口先生が比嘉道場に入門して以来比嘉先生とは師弟関係を築いていた。

比嘉先生がサイパンに道場を開き留守中に師範代として道場を守り宮城長順先生の指導も受けていた。



戦後に妻を亡くされ仕事もない比嘉先生を知る友人が渡口先生を元を訪ね「比嘉先生は困っておられる。それを知っていて(弟子の君が)何もしないのはいかん。先生をウンケー(お迎え)してあげなさい」そう言われて一つ返事で思い立った。



その渡口先生は、糸満の北部の照屋に住み海に落ちた飛行機の機体のジェラルミンをとってきて鍋を製造する鋳物工場を営んでいた。

物資が乏しい時その鍋がとにかく高く売れた。

いや、売れたというよりも皆、現金がないので畑で採れた野菜などの食料や雑貨などとぶつぶつ交換を行なっていた。





そいう事で従業員を45名雇うほどに順調になり比嘉先生をお迎えできる様になっていた。


比嘉先生を自宅にお迎えしての生活はどの様なものだったのだろうか。今では想像しかできない。


空手の縁で繋がった師と弟子。

生活が安定して最初に始めたのはやはり空手だった。


そして、次第に二人の想いはこの糸満の地で空手道場を設立しよう。そう考える様になる。


しかし、道場をするのにもお金も土地もない。

そこで尋ねたのが宮城長順先生の高弟であり糸満在住の医師神谷仁清先生だった。


剛柔流の皆が力を合わせて空手研究所の設立が始まる。


続く