昨日、友人と戦跡を巡ってきました。
大渋滞の東関道を避けアクアラインと圏央道経由で九十九里浜方面へ。















横芝光ICで圏央道を降りて栗山平和公園へ向かいます。
ここはかつて横芝飛行場(多分知らない人が多いと思う)が存在した場所。







碑文

横芝飛行場之跡
横芝飛行場は、昭和13年に当時の陸軍航空本部により、旧横芝町から旧上堺村にまたがるこの周辺の土地、約170ヘクタール(約170町歩)を買収して建設されたものである。初めは、水戸陸軍飛行学校横芝分校であったが、後には、仙台飛行学校横芝教育隊となり、練習機を交え80機以上の航空機が置かれ、操縦学生や通信学生たちの教育に当たっていた。しかし、先の太平洋戦争末期には、この飛行場も標的となり、連日のように爆撃を受けるなど、激しい攻撃にさらされ、これに伴い、周辺地域を中心に本町住民も戦争の災禍を被り、暗い一時期を過ごすこととなった。以来、戦局は険しさの一途をたどり、ついに終戦を迎えるに至ったが、この飛行場は、ここで育まれた航空兵たちにとっては、終生忘れ得ぬ揺籃の地となり、町民としても、戦争と平和を語るとき、欠くことの出来ないところとなった。ついては、ここに未来永劫の平和を願い、横芝飛行場記念碑を建立し、歴史のあかしとして後世に伝えようとするものである。平成5年3月吉日 横芝町長 實川 堅司郎


以上の碑文にあるように、元々1938年陸軍建造の飛行場なんですが
1945年春、近くの香取海軍航空基地が複数の隊が同居して手狭になったことから、
その頃陸軍がほぼ使用しなくなったこの飛行場にて海軍254飛行隊の訓練が始まりました。
254飛行隊といえば、お気づきの方もいるかもですが





上の写真は鹿屋航空基地史料館の敷地に建つ、254飛行隊の碑です。
3年前に撮ったものです。→かつての記事

この千葉県‎山武郡‎横芝光町にあった横芝飛行場、かつては
あの肥田真幸海軍大尉率いる精鋭、254飛行隊の訓練基地だった場所なんですね。
ここから多くの人たちが串良基地などへ進出、特別攻撃へと飛び立って往かれました。
詳しくはこちらを(^^)




往時は300人超の海軍軍人が訓練に明け暮れた場所なのですが
現在はそれっぽくない公園と小さな碑が残るだけで、少し寂しい感じがしました。
滑走路があったであろう場所を少し散策した後、次なる地へ移動。











15キロほど走って次の地、香取海軍航空基地跡へ。
現在はあさひ鎌数工業団地となり、滑走路はブレーキテストコースとなり(Googleなどの
航空写真で十字型の滑走路跡がよくわかる)周りにいくつか掩体壕があります。
Googleマップの航空写真を拡大すると当時のコンクリート跡が見えます。






鎌数伊勢大神宮裏の掩体壕。
飛行機を敵の攻撃から守るために作られた施設です。
通常はコンクリート製で、少ない資材で大きな強度が得られるかまぼこ型。

これは大型機用みたいですな。












滑走路の北西部の掩体壕です。
















さてさて
日が傾いてきたので大急ぎで40キロくらいつっ走り
最終目的地である海軍航空隊 神ノ池基地跡へ向かいます。

神ノ池基地は大東亜戦争末期に設置され、
七二一海軍航空隊(通称 神雷部隊)が特攻兵器”桜花”の訓練を行った場所。
ここでの訓練の後鹿児島の鹿屋基地へ進出、特攻作戦に従事しました。

現在は茨城県鹿嶋市光、新日鉄住金の製鉄所になっております。









製鉄所の一角にある桜花公園。
ここはずっと前から来たかった場所であります。






公園にずらっと並ぶ提灯。
こちらでもみたま祭りがあるんですね。散る桜…











公園の入口にある桜花の碑。
神雷竜巻桜花隊員 錬成之地、と書かれています。
鹿児島・鹿屋の野里にある桜花の碑は、別盃之地 です。

ふたたび、終戦の日を前に皆さんに逢いにやってまいりました…








碑文
太平洋戦争も一段と熾烈を極めた昭和19年10月1日、祖国日本の荒廃をその一身に背負おうと志願してきた紅顔の若者達は海軍百里原航空隊で、特別攻撃隊櫻花隊を結成、同年11月7日この神之池に訓練基地の設置を見た。やがて神之池基地で至難な訓練を受けた若者たちは九州最南端の鹿屋の野里村に移り、鹿屋を特攻基地として祖国の国難に殉じて行ったのである。云わば神之池は特別攻撃隊発祥の地として、わが日本国民として忘れてはならない、祖国の存立を護った尊い大和魂の故里である。



茨城と鹿児島の二か所にある桜花の碑…
どちらも報道班員として神雷部隊の隊員らと接した山岡荘八氏の揮毫で、
桜花隊員であった小城久作氏が建立したものであります。

線香を焚きお神酒をお供えしてしばし手を合わせました。







案内板にはいろいろ貼ってありました。






富安俊助中尉の機ですなぁ。









これは昭和20年4月2日、出撃前に桜の小枝を差し合う
第一建武隊の矢野中尉(左)と岡本二飛曹(右)。











公園の奥へ少し歩くと大きな掩体壕があり、
中には桜花11型の復元機が展示されております。








いちおう書いておきますが
桜花は全長6mの胴体に小さな翼をつけた小型飛行機。
車輪などの降着装置は未装備で母機の一式陸上攻撃機に懸吊、目標に接近してから投下。
滑空を主にロケットも噴射可能でパイロットもろとも目標に突入します。

遊就館の天井に吊られている桜花は見たことありますがこんな至近距離では初めてです。
これも復元機ではあるのですが、なんか息をのむような感覚がありました。
特攻兵器ゆえの冷徹さというか…















この操縦席に一人乗り移り一式陸攻から切り離されていくわけですな。。
そして桜花11型自重の57%にも及ぶ炸薬が収まる頭部…









しばし呆然と桜花を眺めていましたが夜の帳が降りてきました。
戦陣に散り戦渦に斃れ、日本の繁栄の礎となられた方々へ思いを馳せて
もう一度手を合わせ公園を後にしました。









現在の神ノ池基地跡はこんな光景が広がっております(・.・;)





明日は夕方から靖國神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑へお参りへ行きます。
以上