8月中旬に旅した鹿児島・知覧にて。 

復元された三角兵舎を見学した後、すぐ隣の特攻平和観音堂を参拝しました。
特攻平和観音堂といえば、鳥濱トメさんのこの物語を思いださずにはいられない。
これも知っている方が多いかと思いますが。








富屋食堂で特攻隊員の世話をし、隊員たちから母とも呼ばれ慕われたトメさん。

終戦の翌年、昭和二十一年。
いよいよ知覧飛行場で、残っていた飛行機が燃やされることになりました。
すでに250キロ爆弾の多くは信管を抜かれて枕崎の沖合に投棄されていましたが、
一個だけその日のために残してありました。

飛行機を燃やすと聞いたトメさんは、
隊員たちの思いがこもり「形見」でもある飛行機に別れを告げるために飛行場へ。
荒れ野と化した飛行場には特攻機がスクラップにされて山積みされており、
トメさんはその残骸の遠景に向かって手を合わせました。

「あの人たちはお国のために尊い命を犠牲にしたんだよ。
たった一つしかない命を投げうって死んでいったんだよ。
それを忘れたら罰があたるよ。日本人なら忘れてはいけないことなんだよ」


その思いから
トメさんは遠からぬところに落ちていた棒くいを何かの縁だろうからと拾いあげ、
特攻基地跡の地面にその棒を立て、それに向けてお参りを始めました。



かつて軍神と呼ばれた特攻隊員。
戦後は世相が一変して「軍国主義の象徴」と忌み嫌われるようになっており、
ふだんの会話にも出せないような時代が長く続いたという。
当時は堂々と慰霊碑を建てることなど、到底かなう事ではありませんでした。
そのためトメさんは、その棒を隊員たちの墓標代わりにして毎日お参りしました。

「こんな棒杭の墓で済まないけれど、みんなしばらくがまんしてください。
いま皆さんの墓を作ったりすればすぐ壊されてしまうからね。
こんな棒杭なら壊しにくる人もいないだろうからね。
その代わり、毎日お参りにくるからゆるしてください。」


心無い人に発見されて、棒杭の意味がわかってしまったら破壊されるからと、
供えたばかりの花束も持ち帰ったという。






お参りの際、トメさんは二人の娘にこう言いました。

「母さんはね、いつかあそこに特攻兵を弔うために観音様を建てるつもりだよ。」
「いまはまだできないけれど、きっと観音様を祀るからね。
いまのような世の中では、お国のために死んだ人たちの霊は浮かばれない。
でも母さんの回向(えこう)くらいでは足りないからね…」




特攻隊員の慰霊は公的になすべきだという考えから
トメさんは毎日棒杭参りを続けながら観音像建立を請願するために足繁く役場へ通い
町長を説得。長い年月が経過した頃に熱意がようやく通じて建立が決まり、
1955(昭和30)年9月28日、待ちに待った観音像が完成。

「これで多くの人が特攻隊員に手をあわせてくれるようになった」
とトメさんは自らがかつて立てた「棒杭の墓標」をゆっくりと引き抜いた。

その日から
棒杭参りは観音参りにかわり、トメさんは杖を手に観音像に通い続けました。
その祈りは1992(平成4)年4月22日、89歳で亡くなるまで続いたそうです。

(以上、ほぼ「ホタル帰る」より)











その、特攻平和観音堂です。
観音堂はその後2回建て直しをして、この観音堂は3代目です。
出撃された方々の冥福を祈り、じっくりお参りさせていただきました。










それにしても話には聞いて知ってはいるが
特攻のことが口にも出せないような時代があったんですよね…
恐るべしWGIP プンプン





観音堂の由来が書かれた石版。





特攻英霊芳名の碑です。







画像的に御芳名が切れてしまい申し訳ありません。

奥山道郎大佐や渋谷健一大尉の名があるということは、
知覧から出撃した方々のみでなく陸軍の特攻隊員全員の碑、なのだろうか。









平和祈念通りから続き、数多く立ち並ぶ石灯籠。

鳥濱トメさんが
「散華した特攻隊員1036人と同じ数の灯籠を建てたい」
と献灯運動の中心となり、ご遺族などから寄付を募って建てたものです。
現在では灯籠の数は1036を超えています。


空がなんだか光ってました。



トメさんの灯籠です。





かつての門柱が移設されたもの。









他に小泉元首相の碑や映画「ホタル」の碑、
石原慎太郎氏の碑、「今日われ生きてあり」神坂次郎氏の碑など数多く
ありましたが撮りそこねました 汗





特攻勇士像「とこしえに」







特攻勇士像は沖縄の方向を向いています。
出水空港近くの特攻勇士像、翌日行った万世の碑も沖縄の方を向いていました。

横の飛行機は航空自衛隊初等練習機「T-3」
航空自衛隊防府北基地で平成17年まで活躍していたものだそうです。






母の像「やすらかに」





母の像は特攻勇士像を見守るかのように建てられています。



二十数年前、両親と知覧を訪れこの場所へ来たことがあるのですが
陸軍軍人の娘であるところのうちの母は、この像を見てから会館を出るまで
涙が途切れることがありませんでした。





一式戦闘機「隼」

平成19年に公開された映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」で
忠実に復元された陸軍機のレプリカです。

元陸軍航空部隊の整備員の方もここで一夜を共にしたいと言うぐらい 汗
細かいディテールまで再現されているそうです。







素材感がちがう感じは否めなかったですが、本物っぽい雰囲気でした。





つづく


(撮影日 2014/8/17)