つぎに特攻碑公園から200mほどの「特攻神社」へ。



$海とひこうき雲


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特攻神社。
昭和18年に開隊された出水海軍航空隊の守護神として建立されました。出水空が特別攻撃隊の基地になると、出撃する特攻隊員のすべてが当神社に使命の成功と国家の安泰を祈願して、出撃したそうです。

戦後、航空隊は解隊し神社は撤去され、台座だけが残されて植林されました。平成2年に住宅造成の際に台座が発見されると、崇敬者たちが当地を買い取り、戦場に散った特攻隊員の御霊を祠ると共に、祭神の神徳を広めるため「特攻神社」を建立したとのことです。







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特攻隊員像「南方のかなた」。
南方を見つめています。特攻神社の碑や本殿、特攻碑公園の碑はすべて、出撃して散華したであろう南を向いています。

まだまだ未来があったはずの、特別攻撃の隊員たち。17歳の隊員もいたといいます。にらむように南を見つめている姿に、深い悲しみを感じます。






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社殿は最近建て替えられたのか、新しいです。
ご祭神は、関行男命、金指勲命、全国特別攻撃地散華之命達です。

ご存じ関 行男 海軍中佐は、海軍兵学校70期。
レイテ沖海戦における最初の神風特別攻撃隊である敷島隊を隊長として指揮し、
自らも愛機とともに米艦艇に突撃して戦死され、死後は軍神に認定されました。

金指 勲(かなざし いさお *半島出身にあらず)海軍大尉は、
海軍兵学校71期。出水から出撃した菊水部隊銀河隊隊長です。
九州近海に出没した米海軍機動部隊空母フランクリンに五十番(500kg爆弾)2発を命中させ、甚大な損害を与えた方です。

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英霊之碑です。

碑文
第二次世界大戦において祖国日本を守護せんとして昭和二十年四月十七、十八日 出水海軍航空隊基地にて壮烈な戦死を遂げた出水第二海軍航空隊所属練習生の若き勇士百余名の無名戦士の墓標を英霊の碑と改め茲に判明された戦死者の名を刻し永久に安らかに眠り給えと祈りこの碑を建立せるものである

出撃した方ばかりでなく、基地に於いても数多くの隊員が戦死されました。




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英霊之碑の前には第二出水海軍航空隊正門が移設され、置かれています。
かかっている札なども新しく、雑草も抜かれ手入れが行き届いていました。








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神社近くに残る遺構、ボイラー室跡。…だと思います。
特攻碑公園前に案内板がありましが、他には案内等はいっさいなく、迷いましたえっ普通のお宅の敷地内にある遺構も多いようです。






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運動場(練兵場?)だった場所は自動車学校になっております。





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運動場の一角にのこる気象観測所跡。




出水探訪は、以上。
他にも滑走路跡を見たり掩体壕を探したかったのですが、
出水の滞在予定時間が1.5時間だったこともあり今回は断念。
またいつか出水に来て、ゆっくり基地探索してみたいです。

そのときは天草灘を眺めながら肥薩おれんじ鉄道にも乗って、戦闘407飛行隊長の林 喜重大尉が不時着水した阿久根市折口海岸のあたりなんかも訪ねてみようと思っています。

再び出水駅から鹿児島市内へ戻りました。
昭和20年8月15日夕刻に宇垣纏と一緒に出撃した二村治和一飛曹・栗原浩一二飛曹が彗星で西方海岸(現・薩摩川内市)に不時着した翌日、西方から西鹿児島駅まではるばる歩いたのと同じような道のりを、新幹線で20数分で鹿児島中央駅へ。

つづく