旅の最後の目的地は、旧「第二国分海軍航空基地」。
昭和19年に、第一国分基地から約8キロ北方の十三塚原に建設されました。
迫りくる本土決戦に備えて急造された飛行場です。
この場所からは200名近くの方々が特別攻撃へ飛び立ちました。

戦後は農地となり、
跡地の一部は1972年(昭和47年)に移転した鹿児島空港です。
(下のマップ参照。)







その鹿児島空港から車で5分ほどにある、上床公園へ。
上床公園は総合運動公園で、その一角に十三塚原海軍特攻の碑があります。
第二国分海軍航空基地から出撃した隊員の名が刻まれた大きな碑や、
特攻隊員の銅像などが立っております。





$海とひこうき雲





出水の特攻神社の銅像とおなじように、
出撃し散っていったであろう南方を見つめていました。


$海とひこうき雲


特攻の碑

碑文
大東亜戦争の風雲急を告げる昭和十九年 十三塚原海軍航空隊では劣勢の戦局を挽回すべく軍民一致協力して日夜を分たぬ突貫工事をもって特攻基地を建設 昭和二十年四月六日から数回にわ たり沖縄周辺に迫り来る敵機動部隊に対して勇猛果敢なる体当り攻撃を敢行 二百余人の若人たちが眦を 決して雲流るる果て再び還ることのない思いを胸に決然と壮途につき 祖国日本の危急に殉じたのである 
即ち名古屋空 百里空 宇佐空など海軍航空隊の精鋭が 燃ゆる血潮を君国に捧げて 悠久の大義に散華した戦士の魂魄を鎮め 以って祖国のとこしえの平和を希うとともに 之等勇士の偉業を称えてここに之を建立する





近藤清さんの名前が。


$海とひこうき雲










1943年10月16日、学徒出陣の5日前、今は無き早大の戸塚球場で、大戦中最後のアマチュア野球の試合、いわゆる「最後の早慶戦」が行われました。戦時下、野球は敵性スポーツと見なされて六大学野球リーグは中止、戦局の悪化でついに学生までも兵隊に駆り出されることが決まり、
「戦地へ征く前に最後の思い出を作ろう」
「出陣する学徒たちに何か餞を、それには早慶戦がふさわしい……」
と軍部や文部省の弾圧など苦難の中、行われたそうです。

試合は早大が10-1で勝利します。
慶大は選手たちを家族と最後の別れをさせるため、一旦故郷に帰していました。学徒出陣ギリギリの段階で試合ができそうなことがわかり急遽選手を呼び戻したものの、慶大にしてみれば練習不足やエースの故障があり、この結果は致し方ないところでもありました。

しかし、両校は勝敗を度外視して思う存分野球を楽しみました。戸塚球場に応援に詰めかけた学生たちもそれは同じでした。両校から校歌・応援歌とともに「ありがとう」「戦場で会おう」の声が交わされます。慶大生が『都の西北』を、早大生が『若き血』を歌い上げるうちに両校のエール交換が終わると、どこからともなく「海行かば 水漬く屍」の歌声、それはやがて球場全体に鳴り響いたのです。

早大野球部は大学当局との交渉に苦闘しながらも、この日のためにグラウンドを整備し、便所にいたるまで綺麗に磨き上げて慶大を迎えました。慶大もこれに応え、小泉塾長が座布団代わりの新聞紙をきれいに畳み、ポケットに詰め込んで立ち上がると、学生たちも紙くず一つ残さず清掃して戸塚球場を後にしました。

このとき早稲田大学の三番バッターとして活躍した近藤清さん。
岐阜商出身で、1936年(昭和11年)夏の甲子園の優勝メンバーでした。
早大でも主力として東京六大学リーグ戦で2位の高打率を記録、
守備では捕手や外野手として活躍しました。

この最後の早慶戦から2か月後、海軍に入隊。
45年(昭和20年)春に一時帰郷し、母や姉らと記念写真に納まると
神風特攻隊草薙隊の隊員として、ここ第二国分基地から沖縄へ飛び立ちました。
享年24歳。












この上床公園がある高台からは鹿児島空港や桜島、霧島連山などが一望できました。晴れた日には、はるか開聞岳まで望める景勝の地です。 春は桜が咲き誇るそうです。

$海とひこうき雲
鹿児島空港の遠景。
白い空港のビルの、向こうが旧滑走路でした。

$海とひこうき雲
眼前に広がるふつふつとした白い雲が、沸き溢れんばかりの英霊の魂に見えるという。

特攻の碑の周りです。


$海とひこうき雲
滑走路の破片。

$海とひこうき雲
戦後20数年を経て海底から揚げられた零戦のプロペラ。
すごい衝撃が加わったのだろう…ガーン


$海とひこうき雲
航空自衛隊が使用していた練習機T-34型も展示されています。


$海とひこうき雲

追悼歌碑です。


碑文

白雲にのりて 君還りませ さくらのそよ風 菊のかおり

あなたの守り給えるふるさとは いま 平和に満ちています






より大きな地図で 第二国分海軍航空基地 を表示


つづく