日新堂の職制 | 松風園文庫 「高須藩への招待」

松風園文庫 「高須藩への招待」

岐阜県海津市にかつて藩庁が置かれた尾張藩の支藩である高須藩について紹介するブログです。また、所蔵品も載せていきます。 
 

 

 日本教育史資料』では、「維新前に於ては総教一人(他の役員より之を兼務せしめ必ずしも別に役料扶持米等を給せず。)教授一人(役料米十二石扶持米四人口)なりし…」とあるが、名古屋市立鶴舞中央図書館所蔵の『松平殿武官附御家臣』に次のようにある。

   日新堂尚士世話役     惣帳外
          田中才一郎
   日新堂諸生上座
          大村弘太郎
          八木兼太郎
   文武稽古之輩
    毎年金貮両 長谷川惣蔵
   馬芸稽古之輩
    右同断   山中権十郎
   射芸稽古之輩
    毎年金貮両 熊田善吉

 日新堂尚士世話役 

 日新堂尚士世話役というのは、『職禄名譜』に見えない。ただし、「家中文武芸術之世話」というのが散見できる。
  高木縫殿右衛門
  文化五年三月三日御馬廻小頭本役免ぜられ武具方加役「家中文武芸 術之世話方相勤」 様被仰

  付 文化七年一月九日病死
  後藤左内
  嘉永四年三年十日内組頭となり、「家中之輩文武諸芸稽古令世話筈」を仰付られる。安政二年四

  月六日役免ぜられる
  古田官兵衛
  安政四年六月十三日内組頭となり、「家中文武諸芸稽古諸事引請令世話筈」を仰付られる。安政

  六年五月五日御持弓頭並となり、役免ぜられる。
  小島又四郎
  安政六年五月五日内組頭となり、「家中之輩文武諸芸稽古令世話筈」を仰付られる。
  文久元年六月十五日旗奉行となり役免ぜられる。
  これらによれば、「家中文武芸術之世話」は、内組頭が主として兼務していたことが分かる。

 日新堂諸生上座

 日新堂諸生上座というのは、『長谷川敬履歴書』に「十五歳ニシテ藩校ノ諸生上座トナル(諸生上座ハ幼年ノ句讀ヲ授ケル官)」とある。尾張藩では、維新以後諸生上座を訓導としている。

 稽古之輩 

 稽古之輩というのは、師範役の事と思われる。 長谷川惣蔵は、風伝流の槍の師範として門弟を育て、また尾張藩において長沼流兵法の軍講釈をしていた。また天保五年より世子慶勝の侍講を勤めていた。

「資料」

 『日本教育史資料』(462頁)より。

学制

学事の諸制度                 
 性質循良学業抜群の輩は不次昇進或は特別登庸の奨励法ありと雖今其書類散佚して詳ならす。

士族卒の子弟教育方法  
 藩立学校へ必ず入学せしめ余暇猶家塾に於いて修学するは各自の意向に任す而して往々学業篤志の者を選択し藩費を以て他国へ遊学せしめたりき且藩士をして生徒と共に講義を聴聞せしむる事毎月三次とす。

平民の子弟教育方法 
 維新後初て藩立学校へ入学するを許可せりと雖多く慣例に依り家塾寺子屋にて修学するを常とす。

家塾寺子屋設置の制度
 
何人を問はず各自の自由に任せ之を開設するを得せしめたりき。

学校

校名       
 享保年度創建し日新堂と称す。

校舎所在地              
 曾て本村字山の手町なる地にありしが校舎狭小にして生徒を教育するに不便なるを以て文久年間字南水主町なる官邸を増築して滋に移転せり。

沿革要略            
 天保年間舊藩主松平義建の世を襲き儒術を尊崇せしを以て其封國に就き屡学校に臨み右文左武の文字を講堂に揚け子弟を奨励せり因て爾後学時頗る振起したりき。

教則       
 教科用書は孝経大学中庸論語猛子詩経書経及国史略日本外史皇朝史略日本政記左氏傳史記前後漢書等授業の方法は大率に四書五経の素読を了り経書は講義或は輪講歴史は質問或は輪読せしめたり。

学科学規試験法及び諸則 
 皇漢学及算術筆道の三科とす。尤弓馬槍剣等は別に教場あり。凡そ子弟輩は素より文武両道を兼修せしむと雖文学武術と比較の程度を設けす。且学期は上中下の三等に分ち之を三年にして卒へしめ試験の際昇等の者には書籍を以て賞與し加之毎月学力の進否に随ひ素読或は講義を試み句読を誤らす義理明解せる者は紙筆を以て賞與せり。入学の節は礼服着用するを例とす。

職名及び俸禄                 
 維新前に於ては総教一人(他の役員より之を兼務せしめ必ずしも別に役料扶持米等を給せず。)教授一人(役料米十二石扶持米四人口)なりしが、維新後職名改正文武総督一人(役料米三十石扶持米五人口)文武監一人(役料米十二石扶持米四人口)を置き明治四年名古屋藩へ合併更に助教二名(月給金七円)を以て一切教育の事を管せしめたり。但文武総督及び文武監の如きは多くは亦兼務なるを以て役料必しも本文の限に非ず。

職員概数            
 維新前書生正座五名或は六七名、門番二人維新後教授一人監事一人助教三人訓導八人門衛二人、名古屋藩合併後助教二人訓導二人諸生引立五人門衛一人とす。但名古屋藩合併後助教始教員は舊高須藩士を以て之に充つ。

生徒概数            
 私費寄宿生七八名通学三百名内外維新前後大略増減なし。

束脩謝儀            
 総て之を要せず。

学校経費            
 享保年間創立の際舊藩主手元金三百両を附與し以て学資となし該利子を以て学費に充てり爾後変更なし。

藩主臨校            
 春秋両度の釈菜及び不時臨校して一般生徒と共に講義を聴取せるあり。

祭儀       
 聖像の書幅を揚げ春秋両度の釈菜の典を挙く其際楽を奏し神饌を供するの儀あり。

学校の構造及び建物図面 
 
地坪三百五拾坪建坪六拾坪 (別紙図面を添ゆ)