気がついたら秋刀魚の季節になっていた。

ガキの頃から僕は秋刀魚が好きだ。シンプルに塩焼きで、大根おろしをつければそれでよい。

大人になって、刺身でも食すようになった。居酒屋で秋刀魚があればとりあえず頼んでしまう。

つまり今年も秋だ。100円を切る値段で生きのいい大ぶりな秋刀魚が買えた時代は終わってしまったようだが、それでも今年もそうたいしたことのない秋刀魚を買っては、焼いて(焦がして)酒のあてにしている。

 

つまりは秋だ。

春、夏。そんなタイトルをつけて駄文を重ねてきた。

夏から秋になって、もっちゃんが何も書くことがないほどに全く変わらないわけでも、もちろんない。

最近はツイキャスにて毎日のように配信を行い、有料アイテムを献じた人にはお礼のブログみたいなものを送るようになった。

そこでのもっちゃんは変わらないなあとも、それでもより大人により深い境地へ進んでいるのだなあと思う。

それはとにかく、秋は少し、もっちゃんのことそのものではなく、僕にとってのもっちゃんというか、もっと極私的なもっちゃんについて書こうかなと思う次第だ。

 

というのも、つい先日、「あけさい」の2回目の日、僕はちょうど休日出勤の代休をそこにあてていたのだが、同じもっちゃん推しの子に誘われて、午前中から無駄に会場付近で待機していた(そんな早くいかなかった初回と全く同じ位置でライブは見ていたから、つまりはライブでの位置取りという意味では本当に無駄だったのだが)、その際に、その子から「さあやのどこが好きなんですか」と聞かれて、言葉に詰まるというか、さらさらと出てこなかった。

その一方、ライブ終了後にをたく有志で呑んだくれていたのだが、その際は隣の子に、話の流れもあってもっちゃんのいいところについて熱く語って、握手すらしていたような気がする。

酔っぱらわなければ出てこないのか、いや、そういうこともない、まあ、秋の夜長にもっちゃんを思いながら、彼女のいちばんかわいいところ、そんなのではないけれど、僕にとってのもっちゃん、いったいどこに惹かれているのか、そんな話を書いてみてもよいかな、整理してみようか、そう思った次第である。

斬新なことは書かない。きっと酒の場でも当ブログでも散々言っていることを書くだけで終わると思う。つまりは秋の夜長の暇つぶし以上のものにはならない。

 

「低身長、丸顔、やわらかいほっぺた。真っすぐすぎ、ストイックすぎる気性。切れ味鋭く躍動感のあるダンス、正確にしてアイドルとして十二分なかわいさをもった歌声。そして、不器用さ。」

 

 

2年前に僕はこう記している。

今更書くまでもないと言えば、言えなくもない。

既に十二分に書いてきたし、あれから2年の月日が経っているとはいっても、大筋のところでは今も変わらない。実にをたくとしての僕にフィットする、そんな存在であると思う。

 

2年の月日が経った。

今のもっちゃんはアイドルに拘っていると思う。

あの頃のもっちゃんはおそらく、アイドルに戸惑い続けていた。もっちゃんにとって、アイドルはももクロだからだ。これはアイドルなのか?私が知っているアイドルと同じアイドルなのか?私はアイドルなのか?アイドルたり得ているのか?

さほど、アイドル然とする、アイドルである必要もないような、そんな前世のグループであったことも、その状態でもいいことにつながっていた、そのような気がする。

 

アイドルに対しての理解と、諦めと、それでも生まれる欲望と。渇望なのだろうか。

絶対にアイドルに再びなりたいわけでも、なりたくないわけでもなかった。それでも「良い話」があって、この戦場へと戻ってきた。再びアイドルになった。

もっちゃん自身が現実的にいる階層というか、存在している世界の中でのアイドルの定義づけがもっちゃんの中でできたのではないだろうか。

そしてグループも、いわゆる文字通りの古典的な、ブリブリのアイドルというわけではなくても、前世よりはだいぶバランスよくアイドルであるようなグループ。だからもっちゃんはアイドルを前世よりは追求しているのではないだろうか。

 

もっちゃんにとっての「アイドル」がどのようなものなのか、ひとさいになってから正面を切って聞いたこともない。

だからもっちゃんが僕個人にではなく、オープンに言及したものの中から材料を拾っていくことになる(最近はツイキャスにて有料アイテムを送った人に対する「お礼」として、彼女の考え方が色濃く出た文章が送られてくるため、このような活動が捗りありがたい。もっとも、他のサービスと比較すれば単価が高すぎはするのだが、現状はそんな考え方が出るような媒体はこれしかないため、僕にとっては必要経費だとも思う。そして、それを目にするのはもっちゃんに対してその必要経費を払う者、つまりもっちゃんに対して低くない関心を持ち、おそらくほぼほぼ好意を持つ者なのだろうから、もっちゃんも安心して思いのたけを書き連ねることができる、というものだろう)。

 

僕が見た限りでは、「元気を与えるもの」という定義をしているのかな、と思う。

そして、そんな存在になるために、ベクトル、方法は多岐にわたれど、とにかく「頑張る」こと、頑張りぬくこと、頑張っていない人に元気など与えられない、頑張っていない人に応援されても頑張れない、だから私は誰よりも頑張るのだ、そうやって日々頑張っている。

 

どう頑張ればいいのか、きっともっちゃん自身で答えがない。

今は彼女は尺度としてはSNSのフォロワー数というものをよく使っている。グループ内でよく言われるのだろう。これがどうすれば、どう頑張れば伸びるのか、彼女が答え、それにつながる手がかりを手にできていない。どうすればよいのだろう、ずっともがいて、さまよっている。

人気を得るにはどうすればよいのだろう、その答えがない。ちなみに僕にもさっぱりわからない。答えをお持ちの方はぜひもっちゃんに教えてあげてほしい。

 

歌とダンス、パフォーマンスを上げてもおそらく人気にはさほど結びつかず、フォロワー数が劇的に上がる処方箋ではたり得ない。

それでももっちゃんはそこに拘る。それはステージで歌って踊るアイドルである以上、そこに拘る、レベルを上げていく、そのために努力することこそが彼女の正義だからだ。これは前世から変わらないと思う。

もっとも、この点はアイドルであるなしに関わらず、ステージでパフォーマンスをする者としての使命感だろう。

 

歌とダンスだけではなく、見た目、言動、客との交流。すべてにおいて、よりよいアイドルたらんとして、日々努力する。自分には厳しく、人には優しく。嘘をつかず、いつも誠実に。

総合的に、アイドルとしての山をさらに登っていくべく、キャパシティを使い切りながらいつも必死に走っている、それが望月さあやである、そう僕は捉えている。

 

僕の好きなところ、と言いながら、ずいぶん長く、もっちゃんとアイドルということについてだけ語ってきた。

そのように誠実に努力をし続けるところが一番好きなのだからしょうがない。慢心せず、油断せず、自らの理想のアイドルに向けて努力し続けられるところ。そのようなところが一番好きなのだから。

 

そしてその奥底には永遠に払拭できない劣等感が鎮座する。誰よりも劣る自分が誰よりも努力するなんて当たり前なのだ。もっちゃんにとって努力は必然なのだ。

劣等感を払いのけながら、その劣等感を抱えるにもかかわらずスポットライトを浴びて、自分の中の劣等感をさらに強くしながらそれでも必死にアイドルたらんとし、伸びていこうともがき戦い続ける、その物語を見続けるのが僕は何よりも好きなのだ。

結局は彼女の物語を見続けていたいのだろう。アイドル・望月さあやの物語、第二章を。

 

小柄なアイドル、丸顔なアイドル、よく笑うアイドル、パフォーマンスに拘るアイドル、優しいアイドル、誠実なアイドル、努力するアイドル。

こんなものが好きな層はもう少し世の中にいるだろう。その層にどうにかこの望月さあやのことが、もう少し伝わっていけばよいのだが。

外連味も大仕掛けもない。ストレートエッジな、ただし客に対して誠実な優しいアイドル。求道者のようなアイドル。

もう少し評価されるべきだ、今日もそう思っている。

まとまらず中身もない、2022年秋の僕の思いである。