今日も、埼玉古墳について書いてみたい。
上の写真は、中の山古墳である。
【墳形】 前方後円墳
【規模】 全長79m。後円部の直径42m、高さ5.1m。
前方部の幅44m、高さ5.4m。
【築造】 6世紀末~7世紀初め
奥の山古墳から歩いてすぐそこに、中の山古墳がある。
奥の山古墳に比べて少し小ぶりの感じがする。
渡柳三大墳の真ん中にあったこの古墳は、全長79mの
前方後円墳で、二重の周濠が巡らされていたことが確認されている。
かって石棺が出土したことがあるため「唐櫃山(かろうとやま)古墳」
と呼ばれたこともあるという。
また、少し行くと今度は鉄砲山古墳に出会う。
周辺は少し開けていて、学生らしき人達がリクレーションをしていた。
【墳形】 前方後円墳
【規模】 全長109m。後円部の直径55m、高さ9.0m。
前方部の幅69m、高さ10.1m。
【築造】 6世紀後半
埼玉古墳群の中で3番目に大きい前方後円墳である。
江戸時代に、忍(おし)藩の砲術練習場がこの古墳の周辺に
あったため、鉄砲山という名がついたとされている。
二重の周濠が長方形に巡らされていたことは確認されているが、
造出しがあったかどうかは不明である。
周濠から円筒埴輪や須恵器の破片が出土しており、これらの遺物
から6世紀後半ごろの築造であると推定されている。
次に来た道を戻って、瓦塚古墳を見る。
【墳形】 前方後円墳
【規模】 全長73m。後円部の直径36.5m、高さ5.1m。
前方部の幅47m、高さ4.9m。
【築造】 6世紀前半
今まで見た中で一番小ぶりだが、どこか愛嬌がある。
明治初期、この古墳のそばに瓦職人が住んでいたので、
瓦塚という名が付けられたという。
他の古墳と同様に、二重の長方形の濠が築かれていたが、
現在は砂利が敷かれている。前方部の西側くびれ部分には、
造出しがあり、その周辺から大量の須恵器が出土した。
瓦塚古墳の墳丘や中堤には多くの埴輪が並べられていた。
特に、西側の中堤の上には多くの形象埴輪があったという。
琴を弾く男、巫女、武人、家、盾など、その種類は多い。
次に県道を渡って目に飛び込んで来たのは、二子山古墳である。
周囲を水堀で囲まれ、少し圧倒される。
【墳形】:前方後円墳
【規模】:全長138m。後円部の直径70m、高さ13m。
方部の幅90m、高さ14.9m。
【築造】:6世紀初頭前後
二子山(ふたごやま)古墳は、稲荷山古墳と並ぶ埼玉古墳群の
主墳である。
前方後円墳であるが、2つの山に見えることからこの名がついた。
古墳群の中では、稲荷山古墳に次いで築造されたと
推測されている。
しかし、全長は138mであり、稲荷山古墳より大きい。
武蔵野国(現在の埼玉県、東京都、神奈川県の一部)で最大の
前方後円墳だったとされている。