だんだんと私の周りに増えてきた
今流行りのやつね
体のこと・食べることを学んでる者としては
色んな情報に目を通してます
そして実際にはどうなんだろう?と
さらに情報を集めて
私なりに考えて「理解」しています
まだお会いしたことはないけれど
ささなおさんのこの記事が
私が言いたいことはこのことだと
代弁してくれてるようでシェアさせて頂きます
大昔から私たちは「菌」「ウイルス」と共存している
それがこの世から無くなるなんて有り得ないし
「悪」でもない
そして「死」は忌み嫌うものではなくて
私たちの終着点
もちろん近しい人の「死」は悲しい
私は今でも「死」が怖くて
夜眠れなくなることもある(昔よりは減ったけど)
でも「死」は、生まれてきたからには
絶対・100%肉体は滅ぶのは決められている
(もしかしたら不老不死の人もいるかもだけど笑)
私が尊敬する江原啓之さんも
「寿命は決まっていて、それは抗えない」と
短くなる事は稀にあるけど
長くなるという事はあまりないと仰っておりました
内海先生もこのような事を仰っています
私たちはいつ死ぬかわからない生物です。なんかのマンガで言っていました。運があれば毒を盛られても生き延びる。運が悪ければ瓦が降ってきても人は死ぬ。そんなものだと。医者という職業をやっている以上、健康と死というものは常に付きまとう存在であり、死を考えるのであれば生をこそ考え、逆もしかりで考えなければ、死の意味さえも見えては来ません。
私も明日死ぬかもしれません。確かに自殺することはないでしょうが、こけて死ぬかもしれません。心筋梗塞になるかもしれません。脳出血になるかもしれません。くも膜下出血になるかもしれません。それが怖くてみな健診とやらを受けるのでしょう。しかしその健診をやってもこれらを防げていないのが、西洋医学とやらの現実です。 医学は人を助けはしない、という大前提から医学の正体が見えてくるのです。救急に意味があるのは修理と同じだからであり、だから西洋医学の花形なのです。私が携わる分野とはいわゆる慢性病であって、癌、膠原病、難病、アレルギー、アトピー、精神病、遺伝病、生活習慣病など、現代人の日常にかかわり死を感じさせるものと感じさせないものが同居しています。 しかしこれらがよくなる時は皆同じです。本質的にいう死を見つめきって、真の意味で自分に正直になれるかどうかが、これらの病気の改善に最も寄与しているといって過言ではありません。この場合の死は自殺の脅しとかそんなんとは無関係であり、真の意味で自分にとっての死がなんであるかを見つめるということです。私が今日死んだらどうなるかを見つめるのです。
それなくしてどうして高い目的が設定され、人生が豊かになることがありうるでしょうか。私は私が今日仮に死んでも、それでも伝えたいことをすべて家族に伝える気持ちで生きていくのです。そりゃ、本当は今日死ぬなんて誰だって本心では思っていないでしょう。でも瓦は落ちてくるかもしれません。だから毎日を可能なかぎり燃やし尽くして生きるのです。
確かに感染したら致死率100%ならば考えると思うけど
私の中では「インフルエンザ」と同じ括り
風邪だって「万病の元」と
昔から言われるくらいなんだから
普段から免疫を高めておく必要はあると思うし
罹ってしまったらゆっくりと体を休める
ワクチンだって、薬だって
私は色々と勉強して「必要ない」と判断しただけ
体はよく分かっていて
必要ないものが体に入ってきたら
どうするか、どうなるかを知ってる
ただそれだけ
私は生まれた時からほぼワクチンは打ってない
母はそういう主義とかではなく
ただ単に忙しかっただけなんだと思う
前は「マジかよww」と思ってたけど
今では感謝してるの
この48年間特に大きい病気もしてないし
インフルエンザもほぼ罹らない
風邪は引くよ(笑)
打つと決めた人も
その人が色々と考えた上で判断したわけだから
それでいいと思う
人は分かり合えない生き物だと思っていて
100%合致するなんてまず有り得ないし
合致してるかどうかも
相手の心が見えない限り分からない
そこは「あなたはそう思う」「私はこう思う」とだけ
尊重し合えばいいんじゃないかな
だから私の意見も押しつけないし
あなたの意見も押し付けないで欲しい
それは「正義という名の刃」だから
昔の私を思い出す
「はぁ?何で打たないの?信じられない!」
と言ってたクチだから
「調和」っていう言葉が今はよく分かる
私はただ穏やかな毎日を望んでいる
やりたい事をやる
会いたい人に会いに行く
行きたいところに行く
美味しいものを食べて
沢山喋って、大笑いして
たくさんの経験をしたい
ただそれだけ
死ぬ時に「後悔」しないように
毎日を丁寧に生きるだけなんだ