
始まりの手前
最近、ふとした時に思っているのは
始まりのもっと手前のこと。
やろうとして、その、やる前の、始めるところの、その前の、ところのことが気になったり。
大好きな佐野元春さんが、NHKのEテレの番組で、詩人の吉増剛造さんとお話しされているのを聞いていて、内容はわたしには難しすぎたのですが、ただ、なんとなく、「あ、ビッグバンみたいだな。」と思ったりして。
その「ビッグバン」というのは、吉増さんも元春も、言葉をカタチにする前の、湧いてきたその前の、何も無いように見えて本当は何かある、その中から拾ってきたものをカタチにする、というか。
ビッグバンも、何も無いところから、拡大してるとは言われてるけど、でも、何も無いとは言ってるけれど、本当は何かあったのじゃないのか?っていう感じとか。
そんなこと気になっていたら、十数年前にオーラソーマの講座で勉強した、「生命の木」が気になって、また、調べていたら、やっぱりそういうことで。
「カバラ」では
アイン(無)からアイン・ソフ(無限)が生じ
アイン・ソフ(無限)からアイン・ソフ・オール(無限光)が生じたとされる。
えっと、何が言いたいかというと
最近気になっているのは
本当に「何も無い」のか?ということ。
本当に何も無いのに、ビッグバンが起きたり、詩ができたり、音楽ができたり、光が生じたりするのか?ってこと。
本当は「何も無い」のではなく、「見えないけれど、ある」んだと思う。
その、まだ、カタチになっていないものを、ワタシと言う媒体を通して、カタチにしていく。
あ!
その作業が大事なんだ!
何も無いところから、カタチにして次世代に残す。
ということは、
「何も無い」のではなく、「すべて有る」
材料はすべて有る。
あー!
何か難しいけど、そういうことかー