三波春夫さんは、「お客さんは神様です。」と言っていた。この言葉は誤解されて、「お金を払っているんだから何をしてもいい。なんてったって、私は神様なんだから。」みたいなおっさんを生んでしまったが、三波氏はそういう意図で言ったのではないらしい。「お客様は(人間ではなく)神様です。」というのが彼の真意らしい。(もっとも、実際にお金を払って自分の芸を見に来てくれているお客さんも神様の一員であるというような形でお茶を濁してはいたが。)


そもそも、神様とは何者か。


基本的には学問の対象として宗教を捕らえている僕は、「神様という嘘」は存在するという立場をとっている。そしてその嘘は、誤解を恐れずに言えば、人間の理解を超えたものになんとかつけた名前の事だと思っている。その嘘を確かに共有する(共有できない嘘は、単なる妄想だ。)ための儀式が祭りだと思う。祭りこそが演劇のあるべき姿だと思っている僕は、現代の一般的な舞台芸術の、客、演者の関係性がどうも不自然に思えてならない。


「しかし、神様はお金をくれない。お客さんからお金をもらわなきゃ、芸術家は生きていけんだろうが!カスミでも食ってろ、このハゲ!」という声も聞こえてきそうだが、お金は「サクラ」からもらえばいいと思う。この場合の「サクラ」は、もちろん今日一般的に使われている用法ではなく、あの、江戸時代の芝居小屋の一緒に芝居を創っていく人のことだ。役者に順ずる位置で芝居に参加している「サクラ」にお金を貰うのは、(もともとただ見客の事を指していた言葉だし、)一見理不尽に感じるかもしれないが、世の9割以上の役者は結構な額のチケットノルマを課せられて芝居をしている。集まったお金だって祭りを続けるための運営費みたいなものだ。日本経済をなんとか立て直す為にも、こういった類の無駄遣いはどんどんしていくべきではないだろうか。


演者を神様に観て頂き、サクラがさらに盛りたてていく演劇。なんのことはない、本来の祭りの構図なのだが、この関係性の成立しない舞台の上には作品を乗せたくは無い。


そうか。つまりは、「サクラ」がたくさん入り込める余地のある演劇を、どうやって考案するかなんやね。


彼女は、2005年9月29日にアルゼンチンで死んだ。彼女の母親からそのことを聞いたのは同じ年の10月6日の5時過ぎ。淡路町の駅のホーム。次のステージの経費についての交渉がこじれて、疲れていたせいもあってか、人前で泣いてしまった。いくら頑張っても涙が止まらないのでコンタクトが目の裏側に入ってしまった人の振りをした。


彼女と会うと、いつもケンカになった。途中まではくだらない話や芸術論やらで楽しくしゃべっているのに、ある時点でいつも、怒り出すのだ。多分、俺の弱さからくる言葉のあやふやさに、イラッときていたのだろう。

「・・・何が言いたいのかわからない。表現を生業にしている人の話し方とは思えない。」

「そんなん、男には、口に出してゆうたらいかん言葉っちゅうんもあるんじゃぁ!」

「こんなこと言うのもなんだけど、私だって色々やることがある中時間を割いて来てんだから、会う前に決めてきてください。言えないんだったら呼ばないでよ!」

「ゆうたら、あんたがこまるだろぎゃぁ!」

「困るかどうかは、私が決めること。」

「・・・もおええ。出よ!」


いちいち言うコトが的を得ているから、余計腹が立つ。温厚な俺をココまで怒らす奴は後にも先にも彼女以外にいないと思う。そんな彼女だからこそ、信頼していた。特に芸術作品を鑑賞する時の、その視点の確かさに関しては。世界中の人が駄作だと言おうが、彼女が素晴らしいという作品を創りたい。そう思っていた時期もあったし、今もちょっぴり思っている。


彼女は、さっさと、死んだ。僕の「駄作」しか知らないまま。


僕は、いまだに、ブチ切れている。事故が起きた際に同乗していた恋人に対してではなく、彼女に。このままでは、僕は、彼女にとって永遠に「思ったほどでも無い男」のままではないか。名誉挽回のチャンスを与えてくれてもええやんか。


私の周りでもやりたいことをやっている人というのは皆すごく対象に集中して、気持ちと体を全部そこに向けて動いている。その結果ある価値を手に入れた人に対して運が良いとかいう安易な言い方をする人がいるが、それはちょっとどころじゃなく間違っていて、やりたいことに真っ直ぐ向かう人は自分でも努力していると意識しないくらいの自然さで可視不可視の努力をしていて、その前向きさは周りの状況すら自分に向いた方向にねじ込んでゆく強さを生むから、結果がついてくるのだと思う。 


~小山田咲子著 海鳥社 『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』より


なるほど、俺は確かにちょっとどころじゃなく『間違って』いました。


でもよぉ。一つだけお願いがあるんじゃ。


俺が演出ようとしている世界が形になったら、化けて出て、観に来て欲しい。


ぎゃふんと言わせてみせる。




※本文で引用した小山田咲子さんの文章は、彼女が生前ブログに書いていたものを彼女のご両親が編纂し出版されたものの一部です。興味のある方は是非ご覧になってください。


えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる/小山田 咲子
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今、浜離宮で発掘のバイトをしている。わくわくして現場に行ったら、はめられた。発掘とは名ばかりで、作業内容はお堀の中のヘドロの堆積を調査するために、ただひたすらどぶさらい。一体、これが何故発掘なのかと、担当者を問い詰めると、どうやら石垣の組み方を調べたいらしい。だったら、石垣の周りだけ掘ればいいだろうと思うのだが、まあ、いろいろあるらしい。調査費の出所とか、なんとか。


普通に考えれば辛くて苦しいことを、楽しく出来なくなったらあーちすとではない。そう日頃から思っている俺も、さすがにめげかけた。が、ここで折れたら【神社・仏閣系あーてぃすと】という世間を小ばかにした肩書きをわざわざ名刺に書いている俺の名がすたる。


今回は、昔の人はどうやって治水工事をしたか、及び田んぼでのぬかるみから生まれた身体感覚とリズムを推察するための手がかりとして発掘とは名ばかりの土方仕事をしてみようかと思う。だって、一歩歩くと片足が膝まではまって脱出するのに10分かかるような場所なんて、東京にそうそう無いし、上流に作った簡易ダムが決壊して危うく水没しそうになるなんて経験も、滅多にできない。


「昔のお百姓さんは大変だった。」とか言ってみたところでその大変さが実感としてなければ、人に何も語る事はできないと思う。まずやる。それから本を読んだりして情報を整理する。そこから作品を創る。

これが、嘘をつく事を生業にしようとしている【神社・仏閣系あーてぃすと】の方法論だ!ざまぁみろ!!


・・・しかし、今日も疲れた。はっはっはっはぁ・・・・