幸福論 (岩波文庫)/アラン

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■悲しみのマリー
自分はメンタル面があまり強くない。些細なことで動揺するし、気持ちがふさぎ込んでしまう。仕事をしていても、仕事の内容や量よりも、むしろ人間関係に疲れてしまう感じがしてならない。数年ごとに仕事を変えている自分の過去を思い返すたびに、自分は失格者であり、適応障害ではないかと思うこともある。気が塞ぐと、酒を飲む。酒は強くないのである。すぐに酔ってしまうのである。適度なところで飲むことを止めることができず、ついつい飲み過ぎてしまい、宿酔の朝を迎える。無論、後悔しながら、鞄を片手に家を後にするのである。だが、些細なことで、からりと気持ちが晴れることもある。そんなときには、酒を飲むこともなく、気持ちよく目覚めることができる。心持ち自信にさえ溢れているのである。
「悲しみのマリーとよろこびのマリー」とは、ある一週間は楽しいのだが、もう一週間は悲しい思いをして生きる娘の話であるそうだ。アランは「有名な話」として紹介しているのだが、自分は知らない。このマリーが躁鬱病であるかどうかまでは分からないが、文章を読む限りは、躁鬱病のようである。
マリーのような症状がある人に対して、心理学の先生はいろいろな観察をかさね、さまざまな処置をほどこした後、赤血球の数を調べたところ、明らかな法則を発見した。「よろこびの季節が終わる頃になると、血球数が減少する。悲しみの季節が終わる頃になると、血球数が増大する」というのである。心理学の先生は、その数値を見つめながら、マリーに「大丈夫ですよ。あすになれば、きっとよくなっていますから」と応えるのであるが、無論、彼女は先生のそんな言葉を信じることはない。
ある男が、この話を耳にして、「わかりきったことじゃないか。われわれの力ではどうすることもできないのだから。考えたところで血球数が増えるわけではないし……。要するにどんな哲学もむだなことだ。この大宇宙というのはそれ自身の法則にしたがって、われわれに喜びをもたらすこともあれば、悲しみを与えることもある」。「僕がしあわせになりたいと望んだところで、そんなこと、散歩がしたいと思うのと大して変わらないではないか」。男はこう考える。自分は悲しいと思いたがっている、この男は、耐えることしかしないのである。
アランは考える。なるほど、さまざまなつらい判断や、いまわしい過去の出来事をくよくよと考えれば考えるほど、悲しみは鮮やかに蘇ってくる。人は自分の悲しみを味わっているのだ。だから、自分の感情の揺れが、血球の数の問題であると「知ることは」、「自分の考えがばかげていたと笑いながら、その悲しみをつっぱねて、からだの中に押しやること」なのだ。そうすれば、悲しみは体の中の単なる疲労か、病気に過ぎなくなる。情念に駆られ、煩悶するよりも、病気であると考える方が楽である。「裏切られることよりも胃の痛みに耐えることの方が楽である」。「ほんとうの友人がいないというよりも、血球数が少ないというほうがいいではないか」。

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■悲しみのマリー
自分はメンタル面があまり強くない。些細なことで動揺するし、気持ちがふさぎ込んでしまう。仕事をしていても、仕事の内容や量よりも、むしろ人間関係に疲れてしまう感じがしてならない。数年ごとに仕事を変えている自分の過去を思い返すたびに、自分は失格者であり、適応障害ではないかと思うこともある。気が塞ぐと、酒を飲む。酒は強くないのである。すぐに酔ってしまうのである。適度なところで飲むことを止めることができず、ついつい飲み過ぎてしまい、宿酔の朝を迎える。無論、後悔しながら、鞄を片手に家を後にするのである。だが、些細なことで、からりと気持ちが晴れることもある。そんなときには、酒を飲むこともなく、気持ちよく目覚めることができる。心持ち自信にさえ溢れているのである。
「悲しみのマリーとよろこびのマリー」とは、ある一週間は楽しいのだが、もう一週間は悲しい思いをして生きる娘の話であるそうだ。アランは「有名な話」として紹介しているのだが、自分は知らない。このマリーが躁鬱病であるかどうかまでは分からないが、文章を読む限りは、躁鬱病のようである。
マリーのような症状がある人に対して、心理学の先生はいろいろな観察をかさね、さまざまな処置をほどこした後、赤血球の数を調べたところ、明らかな法則を発見した。「よろこびの季節が終わる頃になると、血球数が減少する。悲しみの季節が終わる頃になると、血球数が増大する」というのである。心理学の先生は、その数値を見つめながら、マリーに「大丈夫ですよ。あすになれば、きっとよくなっていますから」と応えるのであるが、無論、彼女は先生のそんな言葉を信じることはない。
ある男が、この話を耳にして、「わかりきったことじゃないか。われわれの力ではどうすることもできないのだから。考えたところで血球数が増えるわけではないし……。要するにどんな哲学もむだなことだ。この大宇宙というのはそれ自身の法則にしたがって、われわれに喜びをもたらすこともあれば、悲しみを与えることもある」。「僕がしあわせになりたいと望んだところで、そんなこと、散歩がしたいと思うのと大して変わらないではないか」。男はこう考える。自分は悲しいと思いたがっている、この男は、耐えることしかしないのである。
アランは考える。なるほど、さまざまなつらい判断や、いまわしい過去の出来事をくよくよと考えれば考えるほど、悲しみは鮮やかに蘇ってくる。人は自分の悲しみを味わっているのだ。だから、自分の感情の揺れが、血球の数の問題であると「知ることは」、「自分の考えがばかげていたと笑いながら、その悲しみをつっぱねて、からだの中に押しやること」なのだ。そうすれば、悲しみは体の中の単なる疲労か、病気に過ぎなくなる。情念に駆られ、煩悶するよりも、病気であると考える方が楽である。「裏切られることよりも胃の痛みに耐えることの方が楽である」。「ほんとうの友人がいないというよりも、血球数が少ないというほうがいいではないか」。