アメリカの鱒釣り
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株式会社 ビーケーワン
さて、これは〈アメリカの鱒釣り〉のためのほんのちょっとした料理の手引き。〈アメリカの鱒釣り〉が裕福な美食家で、〈アメリカの鱒釣り〉のガールフレンドがマリア・カラスで、この二人がきれいな蝋燭を立てた大理石の食卓で食事をするなら、こんな料理こそがふさわしい。
それにしても、不思議な世界を描くリチャード・ブローティガン。しかし不思議と言っても、どこにもない世界を作り出していない。同時代に「裸のランチ」を書いたバロウズなどとは明らかに違っている。ブローティガンの作品には病的な狂気というものはない。むしろリアリズムと言えようか。この作品はリアリズム文学であると言えば、リアリズムとは何かという定義を説明しなくてはならないが、60年代までつらなるアメリカの社会病理を描いているという意味でリアリズムである。
〈アメリカの鱒釣り〉という言葉は、作品中で、単純に「アメリカの鱒釣り」として使われているわけではない。アメリカで鱒を釣るということだけなんかではない。〈アメリカの鱒釣り〉は時に人物、時に文化であり、歴史として登場する。それが何を示しているのかを、読者は手探り状態で読み進むことになる。
アメリカ文学には「白鯨」という作品がある。登場人物のひとりエイハブ船長は、自らの煮えたぎる怨念に駆られるまま凶暴な白いクジラ、モービィ・ディックを大洋に追う。またヘミングウェイは釣りを好んだことで有名だ。男性的で健康的。肯定的で知性に満ちた彼の文学。
1フィートごとにファミリーギフトセンターで切り売りされる小川、「鱒からとれる鋼鉄で、建物や汽車やトンネルをつくる。鱒王アンドリュー・カーネギー!」。ブローティガンがこの作品で、「アメリカの夢の終焉」を描く意図があったかなかっのかは分からないが、60年代のアメリカ文学がひとつの「時代の折り目」とでもいうものや、「大きな物語」の破綻からの出発を余儀なくされたということを示しているように思えてならない。
白鯨 上
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白鯨 下
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