アメリカの中小都市である、ニューヨーク市にあるメトロポリタン美術館は、世界最大級の広さを誇り、所蔵数は200万点とゆう驚異的な数を誇っている。
そのほかにも、ボストン美術館にあるアメリカ館はイタリア風の邸宅を改造したイザべラ・スチュワートガードナー
が多数の美術品を展示している。
メトロポリタンの特色は、そのコレクションの幅がきわめて広く、あらゆる時代、地域、文明、技法による作品を収集していることである。その最大の特徴は、これだけの規模の美術館が、国立でも州立でも市立でもない、純然とした私立の美術館である点。入館料が美術館側の「希望額」として表示されているのも名物で、懐事情の苦しそうな美大生だと少々欠けても大目に見てくれることがあり、いかにも裕福そうな紳士淑女には気前の良さを期待していることが言外にほのめかされるのである。
歴史的にボストンは貿易港としてアジア諸国との関係が深かったこともあり、ボストン美術館ではいち早くから中国、日本、インドなどアジア地域の美術の収集に力を入れていた。中でも日本美術のコレクションは、日本国外にあるものとしては質・量ともにもっとも優れたものとして知られている。本項ではボストン美術館の日本美術コレクション形成に貢献した何名かの人物がいた。
モース
(1838-1925)は、動物学者であった。モースは日本では大森貝塚
の発見者および縄文式土器
の名付け親として知られているが、彼の来日目的は、日本近海に住む腕足類
という原始的な海生生物の採集のためであった。1877年、モースは後に貝塚の発掘調査を行い、発掘報告書を刊行しているが、これが日本考古学史上最初の学術的発掘調査とされている。
フェノロサ [編集
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フェノロサ
(1853-1908)は、研究者・コレクターである。フェノロサは、モースと同じセイラムに住む知り合い同士であった。東京帝国大学が政治学の教授を捜していることを知ったモースはフェノロサをその職に推薦した。
自分の息子にアーネスト・カノーと名付けるほど狩野派に心酔する一方で、南画
(文人画)はだめな絵であるとして徹底的に攻撃した。ついには狩野派の画家に入門し、「狩野永探」という画号まで得ている。明治維新後まもない当時の日本では伝統美術は衰微し、軽んじられていたが、フェノロサは著述、講演などを通じて日本美術の優秀性を人々に説いた。
ビゲロー
(1850-1926)は日本の文化や伝統をこよなく愛し、当時の日本の画家や美術研究者に援助を差し伸べ、岡倉天心の日本美術院
創設に際して2万円を寄付するなど、日本の美術界の発展に貢献した。また、奈良時代絵画の貴重な遺品である「法華堂根本曼荼羅」を筆頭に多くの日本の美術品を収集した。ボストン美術館全体の浮世絵版画点数は約54000点(三枚続のような続版を1件とすると44000件)なので、ビゲローの収集品だけで全体の63%を占める事となる。