三浦春馬さんのニュースを知った時も驚きで思わず声がでたが、竹内結子さんの時もそうだった。

以前、先生に、最近うつっぽくてやる気が湧きません、将来のことを考えると重苦しい気分になります、みたいなことを言ったことがある。

そしたら、"いろいろうまくいかなかったり、手に入らないものがあるとそんな気分にもなるよね。基本的に人生はろくなことが起こらなくて当たり前。でもね、1番最悪なのは、なにもかも手に入って、幸せなはずなのに、絶望に襲われることなんだよ。"

と言っていた。

そのときはそんなばかな。そんな贅沢あるのかな、と首をかしげていたが、どうもそれは真実らしい。

山は登っているときが楽しくて、頂上まで行ったら景色が違った、とかあとは下るだけ、とかはよく言う。なにかが足りなくて、一生懸命のぼっている、上の景色もわからずただ登っている、そんな状況がもしかしたら1番幸せなのかもしれない。

スイスで山のぼりをすると、なんせ山々の標高の高さが半端ではないため、(富士山レベルがそれこそ山のようにある)、ある一定の高さを超えると、木々の様子、空気の様子、草の様子、岩の様子、太陽の様子、が、変わる。まさに別の"次元"で、蒸し暑く、虫がブンブンして、いろんなものに溢れている下界から、天上の世界に変わる。空気は澄んでいて、万年雪が残り、虫もいなくて美しい。でも、なんだろう。以前、下山していて、さりげなく"下界"まで降りてきた時に、その地球くささに溢れた汚さも含めて、なんだかほっとしたのを覚えている。

上の人には上の人にしか見えない絶景がある。でもそこは美しくても空気が薄いかもしれないし、空気が薄くて苦しいことなんて、写真や遠目にはなにもわからない。


20歳の頃、生きるってなんだろう、死ぬってなんだろう、幸せってなんだろう、とそれこそ真剣に考えていたのだが、周りにあまりそれをマジメに考えている人(考えたことがある人)がいるようには見えなかった。ただ、わずかに、インタビューや本から、手がかりを得て、なんとなく答えを探してきた。今半分くらいまで来たような感覚で、昔の底なし沼のような気分に襲われることはない。

でも、若い時にそんなことを考えるヒマが割とたっぷりあったのはありがたいことだったと今は思っている。今はスイスでも、日々、やることも増え、海外で自活するにあたり、いろんなことに追われている。例え、生きること=絶望=無 だとしてさえ、今はそれを受け入れる覚悟がすこしはできている。これは心の中で長年準備しておかないと、いざなにかのはずみで向き合ったりしたら、とんでもない絶望に襲われる危険がある。


さて、先日は、バーゼルの老人ホームでリサイタルをさせていただいた。久しぶりにシューマンの作品を弾き、ベートーヴェンとはまったく違う、人懐っこい、憑依するような性格を懐かしく思った。

明日はチェリストと、教会のランチタイムコンサートで、シュトラウスのソナタを弾く。先週末にはヴィオリストとFuchsというオーストリアの作曲家のソナタを録音したのだが(これがいい曲だった)、ふと静かな時間になると、演奏した全ての曲が微妙にミックスしながら頭の中を流れていく。

ピアニストは、練習中はひとりだし、他のことをしだしたら、まともに効率的な練習などはできなくなってしまう。から、しない(笑)。作曲家との対話でいろんなことを亡き作曲家に時空越しにツッコミながら(あーここはこうきますか、とか、いや、やっぱり最高なアイディアだね、とか笑)、練習をしていく。そんな静かな時間を今日も大切にしたい。