ロシアの伝説的ピアニスト、マリア・ユーディナ (1899-1970) によるオール・ブラームス・アルバム。2004年リリースのセット盤からの分売で、彼女の最初期の録音である「ヘンデル変奏曲」や「ラプソディ第2番」、ベートーヴェンSQのメンバーと共演した最後期の「ピアノ四重奏曲第2番」が収録されている。1948~68年録音ながら良質なステレオで、その鮮明さに驚かされる。

 

 

 

 

 

 

ブラームス/ピアノ四重奏曲第2番のアルバムを探して行き着いたのが当盤であった。優美な印象のこの曲が何とも情熱的に響き、濃厚な表現に魅せられた。リリースされているCDの大半が「ピアノ四重奏曲集」として収録されていることが多いなか、当アルバムではユーディナによるソロも聴けるということで、購入と相成ったわけである。

 

マリア・ユーディナの演奏は、図書館所蔵の「20世紀の偉大なるピアニストたち」のシリーズの中でバッハを聞いたことがあった。彼女のことについては、ヴァレリー・アファナシエフが著書やライナーノーツの中で触れていたので、名前だけは知っていた。ゴルトベルク変奏曲の演奏の際、各変奏ごとに聖書やエピソードを引用して語るなど、宗教心の深い独特なピアニストのイメージがある―その演奏スタイルに当時のアファナシエフは辟易し、途中で会場を後にしたことを今では後悔しているのだそうだ。「わたしが犯した最もひどい愚行のひとつ」とまで言っている―。以前ブログで、「ロシア・ピアニズム」の系譜を辿ったアルバムを扱ったことがあるが、ネイガウス流派が大勢を示すなかで、マリア・ユーディナはレオニード・二コラ―エフ門下であったことが (ライナーノーツ記載の)系譜図で示されていた―同じ門下にはウラジーミル・ソフロニツキーやショスタコーヴィチがいる―。自分で言うのも何だが、僕がユーディナの演奏に惹かれるのもわかる気がするのである。

 

ユーディナについては、ネットで調べると様々なエピソードが見つかり (特にリヒテルのコメントは興味深い) 、とても個性的で強靭な精神の持ち主であることを知ることができた。それは当時のロシア「旧ソ連」の状況―音楽家であることが 文字通り命にかかわった時代―と深く結び付いていることは容易に想像できる。だからであろう、ユーディナのピアノには常に決然とした響きがあり、ショスタコーヴィチの (アイロニーを取り払った) シリアスな音楽から受ける印象と共通している。強烈なまでの真摯さ。燃えたぎる音楽への情熱。今の時代では聞けない音楽がここにある。それは幸せなことなのだろうか―。

 

 

 

 

 

バッハ/ゴルトベルク変奏曲~アリア。1968年録音。

 

ユーディナの演奏を聞きつつ、彼女のドキュメンタリーを。

 

リヒテルの証言に出てくる平均律(第2巻)の変ロ短調のプレリュード。

「戦争中だから」という理由で、このグールド盤も真っ青なほどの

前代未聞のスピードでユーディナが演奏したのだという―。

 

こちらは1950年代のスタジオ録音より。真っ当なテンポの演奏である。

 

「まるでミサのよう」と形容されるバッハ=リスト/前奏曲とフーガBWV543。

数種類ある録音の中から、1954年キーウでのライヴ音源で。

 

リヒテルに影響を与えたと思えるほど素晴らしいシューベルトD960―。

 

シューマン/幻想小曲集Op.12~「夕べに」「飛翔」「なぜに」。

 

1964年録音のベルク/ピアノ・ソナタ。当時としてはとても危険なレパートリーだった。

 

あのスターリンが終生大事にしていたレコードがこれ。何の因果であろうか。

 

 

 

 

 当アルバムのライナーノーツはユーディナの生徒であり親友でもあったMarina Drozdova氏によるが、その中でユーディナのブラームス像と解釈が示されている。

 

マリア・ユーディナは常にヨハネス・ブラームスを作曲家として尊敬し、彼の人格を高く評価していました。その個性と一般的な高い知性と道徳的純粋さが常に彼女を魅了してきた。ユーディナはブラームスの音楽について熟考を重ね、幅広い歴史的文脈で考察し、その中に愛と絶望、自分の運命の探求、真実、世界の悲しみの原因と喜びと光を解明しようとする試みなど、真の芸術家なら逃れることのできない永遠のテーマを見出だしました。それはブラームスの作品の多くに浸透しています。彼女は「この素晴らしい男性は、あらゆる面で生命力に満ちていたのです!」と賞賛しました。

彼女の演奏は「楽譜尊重&作曲家の意図に忠実」といった現代の演奏解釈とは異なり、「マリア・ユーディナ」自身が「音楽」と化してしまっている。その強烈な演奏を「恣意的」と言ってしまえばそれまでだが、背後に作曲家&作品への深い理解や洞察、リスペクトがあったことは疑いない。ユーディナが奏でるピアノは、強力な磁力が働いているかのように聴く者を引き (惹き) 付け、圧倒してしまうのである。
 

 

 

 

アルバム1曲目は「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガOp.24」である (1948年録音)。

ブラームスの自信作であり、、彼のピアノ独奏曲において「フーガ」が登場する唯一の作品でもある(フーガは作品番号なしの若い頃の作品にいくつかある)。作品番号が120番台まであるブラームスは若い時期でピアノ・ソナタの作曲を3曲で打ち切り、彼の懐古趣味の本領が発揮された当曲Op.24、そして難曲として知られるパガニーニの主題による変奏曲Op.35を最後にピアノ独奏曲の大作が途絶え、後に現れるのは (組曲形式に近い) ピアノ小品集となる。この流れはブラームスの師であったシューマンを彷彿とさせる。面白いのはシューマンもブラームスも、生涯かけてピアノ・ソナタを書き上げたベートーヴェンやシューベルトとスタンスが異なる (ソナタの後に変奏曲が現れるところはベートーヴェンぽいが)。思えば、交響曲の作曲もそうだ。彼らのピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲は交響曲の母体のように感じられるが、ブラームスにとっての交響曲は「総合芸術」のイメージをおぼえる (オペラを書かなかったのなら尚更だ)。そういう意味では、比較的早い時期から交響曲を作曲していたシューマンが羨ましかったかもしれない―ニ短調交響曲の初版にブラームスが拘った理由もわかる気がする―。

 

若い頃から所謂「古楽オタク」だったブラームスは、バロック時代の作曲家の作品の編纂にも携わっていたが、1859年に出版されたヘンデル全集第2巻の中に、この度の変奏曲のベースとなる主題を見出したことが作曲の契機になったようである。ブラームスが採用したのはヘンデル/クラヴィーア組曲第1番変ロ長調HWV434~第3楽章「エアと5つの変奏」のエア主題だった。

 

マハン・エスファハニのハープシコードで、全4楽章を―。

 

ケンプ編曲の「メヌエット ト短調」はとりわけ有名―。

 

ブラームス/ピアノ協奏曲第2番変ロ長調Op.83~第1楽章。

テーマの関連性を指摘する声も。

 

 

ヘンデルの素朴なテーマに基づき、ブラームスは何と25曲もの変奏パートを生み出した(ヘンデルの5倍だ)。しかも同主題に基づくフーガまで導入したのである。作品全体にわたり、「カノン」(第6,16変奏)、「ミュゼット」(第22変奏)、「シチリアーナ」(第19変奏)、そして終曲「フーガ」と、バロック様式の音楽が詰め込まれている。「変奏曲」それ自体もバロック時代から受け継がれていている音楽形式だ。古楽オタク・ブラームスの微笑みが見えるかのようである。昔から作曲家たちは優れた即興演奏家であることがほとんどで、ブラームスもそうであった。その即興の妙が各変奏に現れているように感じる。

 

緻密で圧倒的な完成度を誇り、かつ高度な技巧が求められるこの作品は、クララ・シューマンに献呈された(誕生日プレゼントだったそうな)。初演の日にクララが緊張で悶々としながらも上手に弾きこなし、拍手喝さいを浴びたにも関わらず、当のブラームスがネガティヴな反応だったことをクララは日記の中で嘆いている。

 

ヨハネスの冷淡さは私をひどく傷つける。彼は変奏曲をとうてい聴いてはいられない、自分の作品を聴いてじっとしているほど恐ろしいことはないと言う。ヨハネスの気持ちもよく理解できるが、せっかく一生懸命に打ちこんでいるのに、作曲者自身が喜んでくれないのは辛い。

 

そのくせ、ブラームスは批評家たちには「この作品が好きで、高く評価している」と述べているのである。彼としては、ピアノ協奏曲第1番の不評が尾を引いていたのかもしれず、素直に喜べなかったのだろうか。クララの反応は僕には可愛らしく思える。

 

冒頭、変ロ長調のアリアが8小節奏でられ、続いて第1変奏が始まる。歩みを始めるような風情は「バッハ/ゴルトベルク変奏曲」のそれを思わせる。全25変奏というと随分多いように感じるかもしれないが、各変奏は1分を満たないものがほとんどだ。全体は緻密に設計され、グループ分けが可能なようだ―諸説あるが、ここではVar.1–8/9–18/19–25の計3グループとする。各グループの最後の変奏はフェルマータで終わっている―。各変奏はコントラストが狙われていたり、「変奏の変奏(前の変奏曲をさらに変奏する)」が行われていたりする(Var.15&16、17&18、23&24。当初Var.15とVar.16は順番が逆であったようだが、後に替えられたのもこのためだったのかもしれない)。全体的にドルチェの指定が多く、高度な技巧が駆使されていても優美さを失わないようブラームスが配慮していることがわかる。「ベートーヴェン/ディアベッリ変奏曲」だと主題が変奏→変容してゆくが、ブラームスの場合、主題の性格は保持される。それでも技巧の発揮には容赦なく、オクターヴ奏法やトリルの頻出に先人たちの変奏曲の影響を感じさせる。また、所々に変ロ短調(Var.5&6,Var.13) やト短調 (Var.21) の変奏が置かれ、アクセントとなっているが、中心に位置する第13変奏では、特にインパクトの強い葬送行進曲風の音楽が現れる。第23変奏以降の、フーガに向けてのエネルギッシュな高まりは計算の上だろう―徐々に高揚感が高まるように設計されている。聞いていてあまりシューマン味が感じられなかった当曲だが、この突進ぶりと終曲の輝かしさは恩師の「交響的練習曲」と似ているかもしれない。満を持して最後に登場するフーガは、冒頭こそフーガらしいが、バッハのような厳格さは感じられず、ベートーヴェンのフーガが持つ破天荒な性質に接近しているように感じる(ディアベッリ変奏曲も最後近くの変奏はフーガであった)。フーガというより、壮大で力強いフィナーレという印象だ。

 

1856年作曲のブラームス/前奏曲とフーガ イ短調 WoO.9。

バッハの影響が色濃い。

 

メンデルスゾーン/6つの前奏曲とフーガOp.35~第6番フーガ。

当曲のフーガ主題と偶然似ているのだそう。

 

 

 

マリア・ユーディナは23分台で素早く演奏し、興奮の坩堝にリスナーを引き摺り込む。ライナーノーツでは演奏を「25の宝石」に例え、「その構想の壮大さと徹底的さ、そして真の自由、気楽さ、信じられないほどの色彩を組み合わせた超越的な妙技に驚かされる」と絶賛、もはやこのピアニストは自分自身ですらなく、ロシアの詩人チュッチェフのいう「生きた神の器官」となっているとすら述べる。やや大袈裟だが、言いたいことはわかる気がする。「ヘンデル変奏曲」はかつてウゴルスキ盤で聞いたっきりで、それもカップリング曲だったため、気にも留めていなかった。しかもオリジナルのヘンデルにすら関心を持っていなかった (どちらかというと今でもそうだ。もちろん好きな曲はあるが。ヘンデルといえば学生の頃、「音楽の父」バッハに対して「音楽の母」といわれていたのを真に受けて、本当に女性だと思っていた)。それが今回、ユーディナの演奏によって初めて作品に向き合うことができた。この変奏曲が30歳手前のブラームスによる途方もない傑作であることは間違いない―ヘンデルもそのうち聴取レパートリーに加わってゆくことだろう。

 

当盤音源より―。

 

イギリスの作曲家エドマンド・ラッブラによる、原曲に忠実なオケ編曲版。

まるで「ハイドンの主題による変奏曲」のように響く―。

 

こちらは室内アンサンブル版。ロココな雰囲気が木管によって

醸し出されていて、大変興味深い―。

 

ブラームスの友人だったフォルクマン/ヘンデルの主題による変奏曲Op.26。

有名な「調子の良い鍛冶屋」をテーマにしている。

 

 

 


アルバム2曲目は「2つのラプソディ Op.79~第2番ト短調」(1952年録音)である。

「ヘンデル変奏曲」の18年後に作曲、「パガニーニ変奏曲」を献呈されたエリーザベト・フォン・シュトックハウゼンに捧げられている。彼女はブラームスが心許した親友のひとりといわれていて、彼女が結婚した後も夫婦そろってブラームスと交流を深めたと伝えられている。実は、ヴァイオリン・ソナタ第1番Op.78を献呈してほしかった、というのが彼女の本音だったようで(それだけ気に入っていたようだ)、その代わりと言っちゃあ何だが…的な作品がこのOp.79であったらしい―残念ながらOp.78はクララと息子フェリックスのものだった。他は考えられまい。

 

曲は「Molto passionato, ma non troppo allegro」と指示されているが、居ても立ってもいられぬ激情が全体を支配している。コンクールの課題曲になるほどメジャーな存在のようだが、むせかえるような暗澹たる感情が漲るこの曲をポゴレリチ盤で聴いた衝撃は今でも忘れることはできない。第1番ロ短調も凄まじいものだったが、この第2番はそれに輪をかけて凄かった。そのポゴレリチとは真逆のベクトルで、絶対零度の荒涼とした世界観を見せつけたのがアファナシエフ盤。そのどちらも稀有で特異な名演として僕の心に刻まれている。

 

 

 

 

(上記動画の)スコアを見ながら聴くと、3連符の多さに気づく―全体を通し背後で蠢く正体だろうが、不気味かつミステリアスな働きをしている。ソナタ形式を思わせる構成がスケール感を与えているようにも感じられる。総じてテンポの速いユーディナの演奏はここでも、5分を切るスピードで駆け抜ける―提示部リピートをした上で。もちろん闇雲に速いわけではなく、ねっとりとしたフレーズを聞かせる塩梅が心憎いほどだ。降りかかる運命を自らの手で克服しようとしているかのような、そんな演奏である(コーダに向けての激しさ、音の密度は特に凄まじい)。ユーディナだから余計にそう感じるのだろうけど。

 

当盤音源より―。

 

ここではさらに「3つの間奏曲Op.117」を―。1951年録音。

 

ヴァイオリン・ソナタ第1番Op.78。クレーメル&アファナシエフ盤。

 

 

 

 

アルバム最後は「ピアノ四重奏曲第2番イ長調Op.26」(1968年録音)。

この度の本命である。先の「ヘンデル変奏曲」と同時期に作曲され、並行して書かれていた第1番ト短調Op.25の成功に後押しされた形で完成された作品で、当時は全3曲あるピアノ四重奏曲の中で最も人気が高かったという。ただ、作品はピアノ四重奏曲にしては破格の規模を誇り、50分を超えるためか、音楽評論家のハンスリックには「退屈で無味乾燥」と不評を被ったとされる。ドラマティックで聞き応えのある第1番に比べたら確かに優美ではあるが、これといった特徴も乏しく、シューベルトを思わせる長さがネックになった可能性は否定できない。現代においてもあまり演奏されないようだ―それが本当なら実に勿体ないことである。

 

僕のルーティンとなっているFMのクラシック音楽番組の中で取り上げられたのがきっかけで、良いアルバムがないか検索していた矢先に見つかったのが当盤。他にも候補はあり、「マーラー/ピアノ四重奏曲」とのカップリングという魅力的なCDが2種類あったのだが、YouTubeで聴いてこのユーディナ盤に軍配が上がった。それも当然といえば当然。いつしか聞いたカザルスらによる「シューベルト/弦楽五重奏曲」でのマグマのような熱気と凝縮した音楽に煽られるように一気に聴けたのと同じ感覚を、ここでも感じたのである。

 

ライナーノーツによれば、ユーディナが共演したベートーヴェン四重奏団(ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の多くを初演し、全曲録音を残している)とは旧知の中で、彼女は彼らとのアンサンブルをとても有意義なものと感じていたらしい。当録音で参加しているのはドミトリー・ツィガノフ(1stVn)、フョードル・ドルジーニン(va)、セルゲイ・シリンスキー(vc)の3人―ちなみにヴィオラのドルジーニン氏はショスタコーヴィチからヴィオラ・ソナタを献呈されており、バシュメットの師としても知られている―。ユーディナにとっても人生最後のレコーディングであったらしい。そしてこのブラームスの2番は偶然にも自身最後の公開コンサートの曲目だった。この鮮明な音質で聞こえる演奏が、彼女の数奇で厳しかった人生を肯定するような活気と純粋さに溢れた音楽となっているのは偶然ではあるまい。

 

候補だったアルバムより、マーラー/ピアノ四重奏曲イ短調を―。

 

ベートーヴェンSQによるショスタコーヴィチ/弦楽四重奏曲第13番。

ヴィオラの活躍が著しい。僕の好きな作品である。


 

 

作品全体は「Allegro non troppo/Poco adagio/Scherzo.

 Poco allegro/Finale. Allegro」の4楽章からなる。通常50分以上要する演奏時間が、当盤では45分強で情熱的に突き進む。一番規模の大きい第1楽章は優美さと情熱が入り混じる。特に展開部の表現に惹かれる。演奏の密度の濃さは、時間的な要素を超越するらしい。感涙しそうになるほど素晴らしいのは一片の物語のような第2楽章。ホ長調の甘い響きに陶然としながら聴き進めてゆくと、突如不穏なピアノのアルペジオが。そして兆候が現実の姿を帯びてロ短調で強奏される時、ただただ我が身に降りかかった悲劇を嘆くのみである―しかしユーディナの演奏からは自己憐憫は感じない。あくまで決然としたピアノ。真っすぐに、ありのままを見つめ、全てを受け入れるかのような強さを感じる。スケルツォの第3楽章は主部もトリオ部分もソナタ形式で書かれているせいで、規模が大きくなってしまっている。もはやフィナーレのような貫禄である。無論、真のフィナーレはこれから。その終楽章は活気と若々しさに溢れたロンド・ソナタ形式。第1番のように「ジプシー風に」とはいかなくとも、喜びの感情が(作曲者より)素直に感じられる音楽だ。舞曲風のダンサンブルなリズムと旋律が音楽を彩る―花冠を小さな頭に載せ、円を描いて踊る姿が想像できるほどだ。

 

ちなみにピアノ四重奏曲第1番にはシェーンベルクによる(悪名高き?)管弦楽編曲版があるが、この第2番にも実はオーケストラ編曲版がある。ピアノを用いていないという点が共通しているくらいで、こちらの方がずっと穏健でブラームス的である。

 

 

 

 

 

当盤音源で―。きっと演奏に引き込まれるに違いない。

 

 

「(この)カルテットのテーマは幸福であり、幸福を求める人の願望と闘いであり、至福そのものです。ロマンティックな充実感、激しさ、豊かさという点で匹敵するものはありません。これは存在することへの賛美歌のようなものです

 

 

 

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ブログの結びは間奏曲イ長調Op,118-2で―。