2024年の正月の時期にブックオフで購入したCD。シューベルトなどに比べて明らかに地味なブラームスの歌曲だが、オブリガード・ヴィオラを伴うOp.91をはじめ、噛めば噛むほど味が出る滋味豊かなドイツ・リートの世界を、今は亡きソプラノ歌手ジェシー・ノーマンによるアルト寄りの深い歌唱で楽しめる。1980年1月の録音。ドイツの高名な音楽評論家カール・シューマンがライナーノーツを執筆している。

 

 

 

 

 

 

ブラームスの歌曲はそれなりの作品数がある (約300曲といわれる) ようだが、有名なのは所謂「ブラームスの子守歌」といわれる歌曲くらいだろうか。いずれにしてもどれも地味な印象である―それが彼らしいといえば確かにそうだ―。シューベルトやシューマンのようなメロディの陶酔は得られないし、ヴォルフのような鋭い独創性や、ドビュッシーのようなアンビエントな雰囲気があるわけでもない。ブラームス自身、美しいメロディを歌うことにコンプレックスがあったかもしれないが (ドヴォルザーク作品へのコメントから察せられる) 、むしろブラームスなりの価値観のあらわれといえるかもしれない。彼は伝統を重んじつつも、新たな道を開拓しようとしていた―しかもリストら「未来派」のようではなく、である。それは歌曲においてもそうで、他ジャンルの作品と同じ特徴―すなわち、対位法に代表されるバロック様式と民謡の援用―が見られるのは興味深い。ライナーノーツによれば、300曲中144曲はドイツ民謡による歌曲であるとされ、直接の引用はなくとも民謡的なテーマを用いた作品が多いそうだ。素朴で日常に溢れた、生活に密着した音楽―酒場でピアノを弾いていた若きブラームスの姿が目に浮かぶ。ほとんどが編曲によるハンガリー舞曲集も同じルーツを持っている―。それらは部屋の隅で静かに燃える暖炉のような、表面的ではない、芯から暖めてくれる音楽になっていると思う。

 

ジェシー・ノーマンのアルバムは、何だかんだいってこれが3枚目となってしまった―それほど好きなアーティストではないはずなのだが。スケールの大きな歌唱はオーケストラとの相性の良さを感じさせ、今まで聞いたのはどれも管弦楽を伴った作品ばかりであった。声量の大きさ、量感の豊かさ、壮絶に歌い切るフレージングなど、彼女ほど「貫禄のある」という言葉が似合うアーティストは少ないと思う。なので、この度のピアノ伴奏による親密でビーダーマイヤー的なリート・アルバムにはささやかな懸念があったことを正直に告白しなければならない。実力ある演奏者のみに聴かれる「強度」の強さが楽曲を上回る仕方で示されたようなトラックが確かにあるものの、例えば沈滞する楽想が印象的なリートでは、独特の深みが引き出されていて傾聴させられる。特にヴィオラが絡むOp.91の2曲は演奏ともに最高で、当アルバム最大の聞き所といえよう。ここでは1944年生まれのドイツのヴィオラ奏者ウルリヒ・フォン・ロッヒェムが起用されている。ピアノ伴奏は長年ノーマンと組んだジェフリー・パーソンズ。「ジェラルド・ムーアの再来」ともいわれ、数多くの歌手たちに信頼されたピアニストである―そういえばバーバラ・ボニーの伴奏も担当していたのを思い出した―。収録が1980年ながら (デジタルではなく) ステレオ録音だが、フィリップス・レーベルのあたたかく落ち着いた音作りが心地よく、ブラームスにピッタリである。ちなみにノーマンはほぼ全曲をバレンボイムなどとDGレーベルに再録音している。

 

原曲は「5つのリートOp.49」の第5曲。クララが初演を担当している。

出版直後から多くの編曲が生まれるほどの人気曲となった。

 

初めてノーマンを聞いたアルバムより、ブラームス/アルト・ラプソディを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

選曲を見ると、(やはり) ヴィオラ付きの歌曲Op.91が中心にOp.43やOp.105の各曲がシンメトリカルに割り振りされることに気づく。その合間に幾つかの印象的な歌曲が配置されている、といった感じだ。

 

最初の曲は「4つのリートOp.43」~第1曲「永遠の愛について」。アルバムの帯タイトルにも付されているナンバーで、ブラームスの歌曲のなかでもよく知られている作品だという。ボヘミア民謡をドイツ語訳したテキストに基づくもので、「鉄や鋼は打たれて形を変えるが、私たちの愛は変わらない」と歌う。冒頭の暗い色調が徐々に熱を帯び、高揚してゆく―この辺りはブラームスらしさを感じる。上記のセンテンスは曲の後半、長調に転調して宣言のように歌われ、力強く終結する。

トラック11に収録されているOp.43~第2曲「五月の夜」も有名だそうだ。月の光に照らされる夜の情景が密やかに歌われ、涙とともに仄かな悲しみが漂う素敵なナンバー。ルートヴィヒ・ヘルティ詩によるが、ブラームスは原詩の第2節を割愛している―そこではナイチンゲールのつがいが交わす愛の表現が含まれていた―。クライマックスでは「孤独の涙が頬を伝い、熱くたぎりながら震え落ちる」と行き場のない情熱が歌われるが、その気持ちを慰撫するかのようにピアノの後奏で終わるのが印象的だ。そこにブラームスのリアルな姿を想像してしまうのは僕だけではあるまい。

 

当盤音源と同詩にシューベルトが作曲したヴァージョンで―。

ギター伴奏のせいか、さらにライトに聞こえる。

 

 

コミカルなタッチのトラック2/「6つのリートOp.86」~第1曲「テレーゼ」Op.86-1に続くのが「おつかい」Op.47-1。「5つのリートOp.47」からの1曲だが、テキストの内容から「ことづて」の方が合っている感じがする。そのテキストはペルシャの詩人ハーフィズの詩をダウマーがドイツ語訳したもの。そよ風を示すピアノに乗って、ソプラノが愛する人への熱い想いを歌う。「あなたがやさしく彼のことを心にかけてくれる」おかげで「生きる希望がもう一度彼の胸に湧く」という歌詞に、どうしてもクララ・シューマンとの関わりを感じてしまう。

 

Op.86のなかでも特に知られ、人によっては最高傑作という「野の寂しさ」をチェロ&ピアノで―。

 

 

トラック4の「死はすがすがしい夜」Op.96-1は「4つのリートOp.96」から。ライナーノーツではブラームス最後の歌曲集「4つの厳粛な歌」Op.121の前兆と解釈されている。ハイネ詩によるテキストで、疲れや気怠さ、眠さが死と結び付けられて歌われる。でもアンニュイな雰囲気は前半のみで、「ナイチンゲールが愛を歌う」後半は息を吹き返したように高揚し、コーダを迎える。内容から言っても、次の曲との関連でプログラムされたのはほぼ間違いはないだろう。

 

その曲とはトラック5の「5つのリートOp.105」~第2曲「私のまどろみはますます浅く」。ここでいう「まどろみ」が死に結びつくのは周知の事実だ。実はこの曲が含まれていたのでアルバム購入に至ったといっても過言ではない(それだけではないが)。ブラームスに親しんでいる方なら、冒頭聞いただけでデジャ・ヴを感じるだろう―そう、ブラームス/ピアノ協奏曲第2番Op.83~第3楽章で冒頭チェロが歌うテーマに他ならない。数年後に彼はこのチェロの旋律をもとにリートを作曲する。それがこのOp.105-2であった―当時ブラームスが私淑していたアルト歌手ヘルミーネ・シュピースが歌うことを念頭に置いて。もしかすればブラームス自身気に入っていたメロディだったのかもしれないが、ここではOp.83とは異なり、短調で進行するのが意味深である。

 

ピアニストの引退を表明したツィメルマン&バーンスタインによる演奏と

当盤音源との聴き比べを―。似ているというか同じである。

 

実はピアノ協奏曲第2番~第3楽章ではもう1つの歌曲への転用が見られる。

それが先ほどの「6つのリートOp.86」~第6曲「死への憧れ」である。

 

 

 

 

このOp.105のリート集からはもう1曲選ばれており、それはトラック10で登場する。それが「メロディーのように」Op.105-1である。如何にもロマン派といわんばかりの甘美な(文字通りの)メロディが流れる。僕的にはメロディメーカーのドヴォルザークにも劣らぬ魅力である―地味であるには違いないが、それも含めての「魅力」である。この曲は以前ブログでも紹介していて、そのアルバムは弦楽四重奏が伴奏を務めたヴァージョンだった―ロマンティックな響きはそちらの方が勝るかもしれない―。

 

 

 

特にこのリートは歌詞が素晴らしいので、以下に対訳を挙げておく―。

「それ」が何を意味するか、自由に想像していただきたい。

 

メロディーのように 何かが
ふと心をよぎる
それは 春の花のように咲き出で
香りのように ただよいゆく

ところが言葉がやって来て それを捕まえ
目の前に引っぱりだすと
まるで灰色の霧のように 色あせて
息の曇りのように 消えてしまう

それでも 詩の韻律には
なにかしら 香気が隠されている
それは 涙にぬれた瞳が 沈黙の萌芽から
そっと呼び寄せたものだ


(クラウス・グロート、対訳:山枡信明)

 

当盤音源より。上記の歌詞を見ながら聴いていただきたい―。

 

 

 

トラック6の「わが恋は緑」Op.63-5はブラームスの師であったシューマンの歌曲を思わせる性急さとインスピレーションの迸りに満ちている(実際1分半で終わってしまう)。それもそのはず、作詞はシューマンの末っ子フェリックス・シューマンによるものだからだ。詩に対する鋭敏な感覚は、まさに父からの遺伝であろうか。1873年、フェリックス19歳の誕生日にブラームスはこのリートをプレゼントし、フェリックスは狂喜したと伝えられる。生まれてこの方、本当の父親に会えずにいたフェリックスにとって、ブラームスはまさに父のような存在であったかもしれない。ブラームスにとっても息子のような存在だっただろう―それ故に悪意のある噂にも晒されたが―。ファーストネームは勿論シューマン夫妻の大切な友人だった「メンデルスゾーン」に由来するが、それはシューマンが入院先から求めた名前であった(実際の名付け親はブラームスであったという情報もある)。ブラームスはフェリックスの詩を同じOp.63の6曲目にも採用、さらにOp.86の第5曲「耽溺」にも音楽を付けている。

 

 Felix Schumann (1854-

 

 

 

そしていよいよ本命ともいえる「ヴィオラとピアノによるアルトのための2つの歌」(Zwei Gesänge für eine Altstimme mit Bratsche und Klavier) Op.91が登場する―この選曲もまたCDの購買意欲を高めた理由であった。ジェシー・ノーマンの深々とした声にヴィオラが合わないはずはないのである!―。2曲の作曲年代は20年近く離れているが、そもそものきっかけはヨーゼフ・ヨアヒムとその妻アマーリエの結婚式のためであった。ヴァイオリニストであったヨアヒムはヴィオラ演奏も堪能であったし、アマーリエはアルト歌手であったことが、この個性的な編成の実際的な理由となりそうだが、もちろんブラームス自身の作曲欲求にも由来する。何しろオブリガード楽器として「ヴィオラ」を選択する辺り、既に拘りが現れている。メロディと対位法の間を行き来する手法は、(直接的な指摘はないまでも)古くはバッハのカンタータや受難曲に通じることだろう。

 

バッハ/マタイ受難曲より、ヴィオラ・ダ・ガンバが大活躍するアリアを―。

弦楽によるオブリガード楽器としては、ヴァイオリンが頻繁に用いられる傾向

がありそうだ。

 

カンタータ第152番より。ヴィオラ・ダモーレが唯一使われるカンタータだそう。

ソプラノのアリアにリコーダー、ヴィオラ・ダモーレ、ヴィオラ・ダ・ガンバが

トリオ・ソナタを構成している―。

 

 

Op.91-1は1884年作の「鎮められたあこがれ」。リュッケルト詩によるテキストで、この詩人特有の「自然界に語りかける」描写が印象的―しかも語りかけているのは「憧れ」である―。ある種哲学的で、悟性すら感じさせる不思議な歌詞は実に魅力的で、幽玄なヴィオラの響きが実にハマっている。器楽のみの前奏と後奏など、まるでヴィオラ・ソナタのようだ(このOp.91は「ブラームス/ヴィオラ・ソナタ集」のアルバムによくカップリングされるようになっている)。

 

Op.91-2/「聖なる子守歌」は1863年作とされる。前述の結婚式のためという説と、ブラームスに因んでヨハネスと名付けられたヨアヒム夫妻の息子のため、という見解もある。いずれにせよ、1884年に2曲が「Op.91」としてまとめられたわけである。この第2曲は揺り籠のように揺らめく心地よいメロディで始まる―もちろんヴィオラ担当である。この印象に残るメロディは14世紀、中世のクリスマス・キャロル「Joseph, lieber Joseph mein」からの引用であるようだ。テキストは16世紀のスペインの劇作家ロペ・デ・ベガの詩をガイベルがドイツ語に翻訳したもの―ガイベルの詩にはスペインものが多く、シューマンも作曲している―。「ベツレヘム」「神の御子」という歌詞から内容は明らかである(「マリアの子守歌」とも呼ばれる)。音楽、編成、技法、テキスト全てが「古い」という、実にブラームスらしい「新しい」作品だ。

 

当盤音源に第2曲の元となった「Joseph, lieber Joseph mein」を挟んで―。

夫であり父であるヨーゼフ・ヨアヒムへの妻からのお願い、といったところか。

 

 

 

 

アルバムには後2曲残っている―トラック9の「おお、来たれ、やさしい夏の夜よ」Op.58-4と、トラック12「セレナーデ」Op.106-1である。どれも2分とかからない短く愛らしいリートだ。前者は高音域のピアノの調べが印象的であり(前曲がOp.91であったから尚更のこと)、ジェフリー・パーソンズのピアノに改めて注目させられるナンバーである。後者は数あるブラームスの歌曲のセレナードの中で一番有名なのだそうだ―というか、これしか知らない。若き日の2曲の管弦楽のためのセレナードならよく聞いていたが―。夜に思いを寄せている人の部屋の窓辺で奏でる音楽が「セレナード」の風習らしいが、現代ではアウトだろう(通報される)。ブラームスが選んだ歌詞は少し変わっていて、客観的な視点からの歌となっているのが興味深い。3人の学生の想いは届かず、意中の女性は夢の中で「ブロンドの恋人」を見つめているのである。しかもその「恋人」に「私を忘れないで」と囁いているところが心憎い。音楽はコミック・オペラのように淡々と進む。この曲でアルバムを締めているのはアンコールのイメージなのかもしれない。

 

 

 

当盤音源より、「おお、来たれ、やさしい夏の夜よ」Op.58-4。

 

このブログでは別のエンディングを。復元したアルペジョーネによる

シューベルト/「白鳥の歌」D957~第4曲「セレナード」を―。