イェルク・デームスによるシューマン/ピアノ曲全集(全13枚)の最終盤。ここでは若き日のシューマンのピアノ曲集が収録されている。

 

 

 

 

 

 

【CD 13】
1. アベッグ変奏曲 ヘ長調 Op.1
2.「蝶々」 Op.2
3. ピアノ・ソナタ 第2番 ト短調 Op.22
4. プレスト・パッショナート ト短調 WoO.5-2
5. クララ・ヴィークの主題による即興曲 ハ長調 Op.5(1833年初版)

 

 

これで全13枚が完結するわけだが、こうして聞いてくると、選曲にそれなりの意図があるのではないか、と思えてくる―膨大な数のピアノ曲はどのような曲順でも収録可能だからである。Opus順ではないので、録音された順番に沿っているのだろうか?想像の域を超えないが、シリーズ最後を締めくくるのがシューマン初期の作品とは気が利いている。今年特に「北国に遅い春」という形容が当てはまらないほど最速で、春の息吹が押し寄せてくる中で、若きシューマンの屈託のない瑞々しいピアノ曲を聞けるのは嬉しい限りだ。

 

 

 

 

アルバム1曲目から清々しい気持ちになる―作曲家シューマン初の出版作「アベッグ変奏曲Op.1」である。1830年、二十歳の作品だから当然といえば当然。まだ指を故障しておらず、コンポーザーピアニストを夢見ていた頃のものだけあって、アイディアに富んだ意欲的なピアノ曲である。

 

これ以前にシューマンは10代の時から既に多くの(未出版)作品―いくつかのピアノ曲や歌曲、未完となったピアノ協奏曲やピアノ四重奏曲などをすでに手掛けていた。またピアノをフリードリヒ・ヴィークに師事し始め、(当時9歳の)クララとも出会っている。クララの演奏は当時から才能溢れ、シューマンは大いに刺激されたようである。シューマンのピアノ演奏の評判が広まった頃に完成した「アベッグ変奏曲」はその独創性が高く評価されたようだ。ウィーンの新聞に載せられたレビューでは「若い作曲家の中でも例外的なケースであり、借り物ではない自らのインスピレーションで書かれていること」を絶賛し、その特異性を「不死鳥」になぞられているほどだ。同時に技巧にも独自性が見られ、演奏のために注意深い研究と練習が必要であることも付け加えられている。

 

参考までにウィキペディアより、1830年までの作品リストを引用する―。

 

詩篇150番 1821-24

序曲と合唱 1822-23

ピアノ協奏曲 ホ短調 1827

11の歌曲集 1827-28

8つのポロネーズ 1828

ピアノ協奏曲 変ホ長調 1828

ルイ・フェルディナントの主題による変奏曲 1828

ピアノ四重奏曲 ハ短調 1828-29

ロマンス ヘ短調 1829

練習曲 1829-30

交響曲 ハ短調 1830

 

 

交響曲に発展させようと考案していたピアノ四重奏曲ハ短調。冒頭は

エロイカのコーダを思わせ、後の「春の交響曲」のようでもある―。

 

1830-31年に作曲された未完のピアノ協奏曲ヘ長調を補筆完成させた

世界初録音盤。生誕200年の2010年にリリース。

 

 

作品はテーマと4つの変奏、幻想曲風フィナーレからなる。「Animato」で柔らかく奏でられる主題は「アベッグ(ABEGG)」の音型に基づくが、女性の名前(しかも架空)だというのも若きシューマンらしい―このようなアナグラムを音名象徴として用いる書法は古くはバッハにまで遡れる(BACH主題)。この後シューマンは「謝肉祭」でも用いるが、後の妻クララの音型はあらゆる曲に浸透している―。音名は逆行型「GGEBA」でも示される。一貫してヘ長調で進行するが、第4変奏で変イ長調の夢想的なカンタービレとなるのが印象的だ。「Vivace」で始まる最後の幻想曲風フィナーレがこの作品の独創性が遺憾なく発揮されている箇所であり、コーダ直前の「ad libitum」で「ABEGG」が1つの和音として鳴らされ、その後一音ずつ離鍵することで空間に音を伴わない「ABEGG」が浮かび上がる―という類を見ないアイディアが披露される(この手法は後のピアノ曲でも示される)。そしてコーダではmfからpppへ移行し、消えるように終わるのである。まるで架空の主題を虚空に還すかのように…。

 

ここは若々しいエフゲニー・キーシンの演奏で―。

 

当初シューマンが予定していたピアノ&管弦楽ヴァージョンを

音楽学者のヨアヒム・ドラハイムが補筆復元した録音で―。

 

 

 

 

同時期に作曲された「蝶々」Op.2もまたアベッグ変奏曲と似た雰囲気を持ち、しかもさらに音楽的に充実させた作品となっているのが興味深い(続けて聞いても違和感がないほど)。シューマンのお気に入りだったジャン・パウルの小説「生意気ざかり」(1804)の最終章に登場する「仮面舞踏会」の場面を音化しようと試みた―というこの作品、「蝶々」と呼ばれているのはジャン・パウルの文学の中で、パピヨンがシンボルとして用いられているからだそうだが、全編ワルツ(またはポロネーズ)で構成されるこの作品の優雅さや変容を表すのにピッタリのタイトルに思える―しかしながらタイトルの由来は依然として不明である―。小説の内容は、対照的な性格をもつ双子の兄弟、情熱家のヴルトと夢想家のヴァルトが一人の女性ヴィーナに恋をし、仮面舞踏会にて彼女がどちらを選ぶのかを見極めようとする―というもの(シューマンに詳しい方ならピンと来ると思うが、この二人はシューマンの分身「フロレスタン」「オイゼビウス」のモデルになったと考えられている。ちなみに「ヴルト」「ヴァルト」もジャン・パウルの分身であるという指摘も存在するのは大変興味深い)。シューマン研究家として名高い前田昭雄氏は初版に基づき「パピヨン」の1曲1曲にどのように対応するか綿密な分析を行っているが、後に絶対音楽を理想としたシューマンはテキストに合わせたわけではないことを強調している。いずれにせよ、文学と音楽の融合を目指した若きシューマンならではの作品であることは確かである。

 

作品の構想を得る直前と思われる1828年にはこのようなメモが残されている―。

 

夜の歓喜の嵐。毎日の即興演奏。ジャン・パウル風の文学的ファンタジー。シューベルトに特に熱中、ベートーヴェンにも。バッハには少し。シューベルトへの手紙

 

想像だが、シューベルトが残したドイツ舞曲などが音楽的インスピレーションを与えたのもしれない。この年には(この作品に引用される)4手ピアノのためのポロネーズが作曲されているのも見逃せない。

 

 

曲は短い序奏と12曲から構成され、全体はニ長調でまとめられるが、Op.1とは比較にならないほど多彩な変容を聞かせる。6小節のみの序奏はウェーバー/「舞踏への勧誘」を思わせるオープニング(前田氏はここで「誰を選ぶのか?」という質問を感じ取っている)。第1曲はまさにパピヨンの羽ばたきを思わせ、今の春の時期にピッタリだ。続くナンバーも調性が「変ホ長調-嬰ヘ短調-イ長調-変ロ長調」と変化に富む。

変ロ長調の第5曲はポロネーズであり、前述のシューマン作品の引用とされる(この曲は「ヴィーナ」を指していると考えられているが、彼女はポーランド人という設定からポーランド舞曲であるポロネーズが採用されているという)。

第6曲から第9曲まで「ニ短調-ヘ短調-嬰ハ短調-変ロ短調」とマイナー調が続くのは一体どういう訳なのだろう?僕は物語-音楽の核心がそこにあるような気がしている。

前田氏の分析では双子同士で仮面の交換が行われ、ヴィーナへの告白が成される場面なのだ。夢見がちでダンスがままならないヴァルト…ヴルトは彼のために代役を引き受ける―つまり仮面を交換するのだ。何も知らないヴィーナは告白を受け入れてしまうのである。第10曲ハ長調ではファンファーレが鳴り響き、第11曲では再びポロネーズが現れる。そして終曲では17世紀頃のドイツ民謡といわれる「Grossvatertanz」が引用され、第1曲のテーマと交じり合う。ここでの効果は絶大で、舞踏会の終わりを告げる朝6時の鐘の音とともに、賑やかだったダンスホールが人もまばらとなり、音も虚空に消え、静けさを取り戻してゆく様を絶妙に描き、Op.1の幻想曲風フィナーレをさらに発展させた音楽となっている。ディミヌエンド→pppに至るコーダでは和音の音が1つずつ離鍵する度に減ってゆき、音楽が遠ざかってゆく…。

 

 

シューマンは初版で小説の末尾の言葉を引用していた―。

 

聞いてごらんよ。遠くでヴルトは、逃げ去る音を掴まえようと夢中になって耳を傾けている。それというのも、彼には兄(ヴァルト)が音と一緒にどこかへ行ってしまうのがわからないでいるからだ。

 

 

さらに、シューマンの母親が「パピヨン」の楽譜を受け取って聞いた時の印象は作品の真意を実に良く捉えているように思う(彼女は音楽に関して素人だったことに注目したい)―。

 

「(…)確かにそうです。この曲には涙を誘うようなものが潜んでいます。特にその最後のところでは、強くて深い憂鬱な思いに沈み込んでしまいます。あの遠ざかってゆくアクセント、だんだんと小さくなって消えながら動くアクセントは老年の姿なのでしょうか。毎年ひとつずつ音が死んでゆく。そして最後にはわたしたちのことが全く噂話にも上らなくなる時がくる。自分がいなくなっても、その後に長い反響を残したり、選ばれた人々に自分の力を受け継いでもらえる人は幸せです。わたしが死ぬ最後のときも、この遠くに聞こえるつぶやきに似たものであればよいと思います…。

 

 

1819年に作曲されたウェーバー/「舞踏への勧誘」Op.65。

シューマンが知らなかったはずはあるまい―。

 

シューマン/謝肉祭Op.9より。「蝶々」と「Grossvatertanz」が引用される。

マウリツィオの息子ダニエレ・ポリーニによる演奏で―。

 

チャイコフスキー/バレエ「くるみ割り人形」~第1幕第6場。

「Grossvatertanz」が引用されている。

 

 

 

シューマン/4手ピアノのための8つのポロネーズより。Op.2の原型。

 

シューマン/「パピヨン」を当音源のデームスによる演奏で―。

 

 

 

 

3曲目は「ピアノ・ソナタ 第2番 ト短調 Op.22」―全3曲あるシューマン/ピアノ・ソナタで実質最後の作品である。1833-38年の5年間をかけて現在の形になった。

初版は1835年に完成したが、クララからの提案でフィナーレが書き改められる(元の終楽章「Presto passionato」が難しすぎるという意見だった。後日ブラームスが出版している。このアルバムでもソナタの後に収録されている)。クララはこのソナタがたいそう気に入ったらしい。

 

私は第二のソナタに無限の喜びを感じています。それは多くの幸せな時間と苦痛だった時間を思い出させてくれます。あなたと同じように、私はそれが大好きです。あなたの存在全体がソナタを通して非常に明確に表現されており、理解できないものはありません。

 

 

クララばかりではなく、シューマンのソナタの中で専らこの第2番が広く知られ、好まれているのは理由なきことでない―そのコンパクトさとインパクトの強さに秘密がある。全4楽章が簡潔にまとめられていて、一筋の矢のように衝動性が全曲を貫いている。論理的に見て矛盾するような演奏指示もあるが(特に第1楽章)、シューマンらしさに溢れていて実に魅力的だ。この曲を語るうえで忘れられないのはマルタ・アルゲリッチの演奏である。前述の第1楽章には「So rasch wie möglich」(できるだけ速く)という指示がなされているにもかかわらず、コーダでは「Schneller」(もっと急速に)→「Noch schneller」(さらに急速に)と熱狂的に急き立てる場面が用意されている。物理的に不可能だが、僕は切迫する心理状態をピアニストに求めているのだと思う―そしてこの指示通りに弾いてしまったのがアルゲリッチなのである(僕の知る限り唯一無二の演奏)。本当かどうかは定かではないが、これを聞いてピアニストになるのを断念した人がいたという話も聞いたことがある。確かにそう思ってもおかしくないような凄演となっているのである。

 

アルゲリッチ30代の頃の録音。カップリングのリスト/ロ短調ソナタも名演。

 

 

作品が持つ衝動的なエネルギーばかりが強調されてしまいがちだが、冒頭で和音が打ち鳴らされてから始まる切迫したテーマが(度々登場する)「クララ」を表す下降音型であることも見逃すことはできない。「Andantino」の第2楽章は忙しなく絶えず躍動しているこのソナタの中で唯一のオアシスのようだ。このテーマが以前に書かれた未完の歌曲集の中の「秋に」と題するリートから採られていることにも注目できる―ピアノ・ソナタ第1番~第2楽章も未出版の歌曲に基づいていた―。

第3楽章の短いスケルツォで活気は戻り、改訂されたフィナーレ「Presto」へと続く。初版よりもシンプルになったとはいえ、第1楽章と同様のスピード感が求められる。

聞き比べてみると、なるほど初版の「Presto passionato」は実に情熱的だが、ベクトルが拡散されてしまっているように聞こえる。ラフマニノフばりの技巧が駆使されるそうで、ここまでの流れからすると少し場違いな、盛り過ぎの感じもする。他方改訂されたヴァージョン(現行版)は全体の締めくくりに相応しいバランス感が感じられる―統一され、より完成された音楽となっているのである。でもシューマンは(未練からか)コーダ直前の「Quasi cadenza」で、初版のフレーズを一部採用している―結果、音楽は終わりに向かって一層燃え立つのである。

 

1828年に取り組んだ11の歌曲集~第8曲「秋に」。

 

幻の「プレスト・パッショナート」。ソコロフによる悠然たる演奏。

 

 

 

 

このシューマン/ピアノ曲全集の最後を飾る曲が「クララ・ヴィークの主題による即興曲Op.5」とは、何と相応しいのだろうか―。以前デームスはこの全集の第3集で、同曲の改訂版(1850年版)を弾いていた。ここでは1833年の初版が演奏されている。違いはかなりあり、テーマは変わらないが、変奏の一部が省略&変更されていたり、フレーズや音高の異なるパッセージも見受けられる。でも決定的な違いはそのコーダにある。今まで見てきた「アベッグ変奏曲」や「蝶々」と同様の、いや、もっと大胆な終わり方だろう―聞く人によっては未完成に聞こえかねない―。まさに音楽が最後まで弾かれず空中分解してしまうのだ。

 

この曲、実はほかにも音源を所有しており、指揮者オイゲン・ヨッフムの娘であるヴェロニカによるCDがあるが、彼女も初版を演奏していた(初版のアイディアを取り入れたブラームスの変奏曲をカップリングしているので、初版でなければならなかっただろう)。ただ、同じ初版によるはずの当デームス盤とは若干異なる変奏が聞かれるのが興味深い。どちらが正しいか?というのではなく、演奏者がアイディアを巡らした結果であろう―デームス盤がスタンダードのような気がする。

 

 

 

 

1833年初稿版と1850年改訂版の聞き比べ。関心のある方はどうぞ―。

 

 

 

 

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(4手ピアノのための作品が収録される盤もあるとは羨ましい限り)

 

 

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