先月の誕生日プレゼントからもう1枚―。数いる日本の若手ピアニストのなかでも、とりわけ僕の感性に合った音楽を聞かせてくれる北村朋幹(1991-)のデビュー盤。シューマン/幻想曲を中心に、ベートーヴェンの面影とリストの想いを伺わせる極めて優れた構成のアルバム。奇しくもシューマン生誕200年の2010年録音。SACD盤。自身の執筆による充実したライナーノーツも読み応えある内容で素晴らしい。

 

 

 

 

 

 

このアルバムを選んだ理由は上記のほかにいくつかある―タイトルにも示されているベートーヴェンの歌曲「遙かなる恋人に寄す」のリスト編曲版が収録されていることだ。ネットで一部試聴したところ、後期ソナタを思わせる叙情性と気高さに驚いた。シューマン/幻想曲を語る上で欠かすことのできない作品のため、改めてプログラムの素晴らしさを感じた次第である。もう1つはメインとなるシューマン/幻想曲の演奏だ。具体的な点は後述するが、現行版ではカットされた終楽章コーダでの回想部分がある初版によるのだ―このタイプの録音は希少で、晩年のデームスのライヴ盤とシフによるECM盤しかない。アルバムの構成からしても(ベートーヴェンに倣えば)「そうであらねばならない」解釈だと感じる―。

 

(…と書いたが、実際に聴くと初版ではなく現行版であった。ライナーノーツにも触れられていなかったので、あれ?と思っていたのだが、どうやら僕の記憶違いだったようだ)

 

 

当盤は日本の作曲家&演奏家をメインとした録音をリリースし続けるフォンテック・レーベルによるアルバムであるが、北村氏の師である伊藤恵も「シューマニアーナ」シリーズを同レーベルに録音しているのが興味深い。北村氏が生まれて初めて(お小遣いを貯めて)買った楽譜がシューマン/幻想曲であったというから、彼のシューマン愛は師に負けず劣らずのようだ―その思い入れの深さを聞くことができるアルバムといえよう。この後北村氏はフォンテックに4枚ほどアルバムをレコーディングしているが、どれもコンセプトに拘った構成となっている。

 

現時点での最新アルバムはジョン・ケージ。

 

「ボン・テレコム・ベートーヴェン国際コンクール」でのセミファイナル。

武満徹をはじめとした多彩なプログラム。

 

 

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先月のリサイタル。現代曲をシューマンで挟み込む内容―。

 

 

 

 

アルバム1曲目はベートーヴェン/連作歌曲集「遙かなる恋人に寄す」Op.98(1816)をフランツ・リストがピアノ・ソロに編曲したヴァージョン(S.469)。

リストのベートーヴェン編曲というと、交響曲全9曲のピアノ編曲(1863-64)が一番有名だが、当歌曲集が編曲された1849年以前にも交響曲の編曲が試みられており(第1稿:1837年)、他のベートーヴェン作品の編曲も集中して行われている。その成果が満を持して結実したのが交響曲全集だとしたら、当歌曲集の編曲は10年余り取り組んできたベートーヴェン編曲の1つの結論ともいえるのではないだろうか―。

装飾音を派手に追加した華麗な編曲ではなく、ヴィルトゥオーゾ性を抑えたシンプルな仕上がり。リストがこの作品の音世界を尊重していたことが伺える―リストに対するある種の偏見は克服されなければならない―。このピアノ・ソロ版のおかげで、この作品がベートーヴェン後期の味わいを湛える名曲であることを知ることができる。まるで新発見の後期ピアノ・ソナタ(もしくはバガテル)を聴く思いである。

 

音楽史上初ともいえる連作歌曲集―リーダークライス―。その形式は後のシューベルトやシューマンを予見させる―彼らが参考にしたことは疑いない。作品は全6曲からなるが、独創的なのは各曲がアタッカで繋がれていて、冒頭テーマが終曲で再現されることだ。まさに歌で編まれたリングのよう―。調関係も巧みで「変ホ長調-ト長調-変イ長調(変イ短調)-変イ長調-ハ長調-変ホ長調」とシンメトリックな関係にある。

歌詞も(ベートーヴェンが選んだにしては)素敵で、遥か彼方の土地で離ればなれになった恋人を想う内容だ―その「土地」とは、天国という解釈もある。この作品はパトロンのロプコヴィッツ侯爵に献呈されたが、同じ時期に彼の妻が他界しているので「レクイエム」的意味合いが感じられるという分析だ―。シューマンが気に入るのは当然だろう。「丘の上」「牧場」「山々」「太陽」「光」「霧」「雲」「谷」「森」「小川」「そよ風」「小鳥」「花」「海」など自然描写の多さも特徴的だ―自然を愛し、「田園交響曲」を作曲したベートーヴェンの姿がオーバーラップする。驚くのは作者が詩人ではなく医学生だということ。その分素直な感情が言い表されているのかもしれない(後に詩人としても活躍したらしいが)。

 

スコアの指示は一部ドイツ語で書かれ、後期ソナタの特徴と酷似する―「Ausdruck」「Empfindung」の指示は第27番以降のピアノ・ソナタに頻出する―。実際に聴くと第1曲はまるでピアノ・ソナタ第30番~終楽章を思わせる雰囲気の音楽。スケルツォ風のナンバーは晩年のバガテルの軽やかさを感じさせ、トリルの多用は最後のピアノ・ソナタのよう。終曲である第6曲で初めて歌謡的なメロディが登場するあたり、終楽章が同じ傾向の後期3大ピアノ・ソナタ(第30-32番)を思わずにはいられない(「変イ長調-変イ短調」は第31番の調性)。そしてこの終曲こそ、シューマンが幻想曲で引用した音楽なのだ―よほど気に入ったのか、弦楽四重奏曲第2番や交響曲第2番でも用いている。ちなみに歌詞は以下の通り―。

 

(対訳はネットから拝借)

 

 

6. さあ、これらの歌を受け取ってください  6. Nimm sie hin denn, diese Lieder,

   恋人よ、あなたのためにうたった歌を         Die ich dir, Geliebte, sang,

   そしてうたってください、日の暮れがた    Singe sie dann abends wieder,

   甘やかなリュートの音に合わせて!        Zu der Laute sussem Klang

 

   やがて、黄昏の茜色が                 Wenn das Dammrungsrot dann ziehet

   おだやかな、青い海の方へ移り      Nach dem stillen blauen See,

   その最後の光が、あの山の頂きの           Und sein letzter Strahl vergluhet

   背後に隠れて燃えつきるとき       Hinter jener Bergeshoh;

 

  ぼくが満ち溢れる胸の底から        Und du singst, was ich gesungen,

  ひたすら憧れに燃え立ちながら         Was mir aus der vollen Brust

  なんの言葉の飾りもなしにうたった     Ohne Kunstgeprang erklungen,

  このぼくの歌を、あなたがうたうなら    Nur der Sehnsucht sich bewusst: 

 

  そのとき、これらの歌の前では       dann vor diesen Liedern weichet,

  ぼくらをひき離しているものが身を引き   Was geschieden uns so weit, 

  そして、恋する心は、恋する心が      Und ein liebend Herz erreichet, 

  あがめるもののもとへ行きつくでしょう!  Was ein liebend Herz geweiht 

 

 

まさに、交際を反対されていたシューマンとクララの苦しい事情と願いを代弁するかのような歌詞である。幻想曲にこのメロディを託したシューマンの想い、それを弾いた時のクララの心のときめきを十分想像することができるだろう。

 

ボストリッジ&パッパーノ盤で第6曲を―。テノールを想定して書かれた

歌曲集だという。

 

福間洸太朗氏による詳細な解説。作品の背景がよくわかる。

 

 

 

 

2曲目はシューマン/ベートーヴェンの主題による自由な変奏形式の練習曲。

リストがベートーヴェンの編曲に取り掛かる少し前から、ワーグナーが「第九」のピアノ編曲を1831年ごろから始め、その風潮はシューマンにも影響を与えていた。彼も早速ベートーヴェン研究に乗り出し、交響曲第7番~第2楽章「アレグレット」をテーマとした練習曲を1831年から書き始める。この第1稿(A)は途中で頓挫し、1833年に再び取り組むことになった―クララへの恋愛が関係しているものと思われる。実際この第2稿(B)はクララに捧げられた―。さらに1834~35年にかけて第3稿として纏められ、これが現行版とされるが、出版が何と1976年。140年以上の時を経て、日の目を見ることになった作品である。所謂珍曲だが、シプリアン・カツァリスがベートーヴェン(リスト編)/交響曲全集録音の際、第7番のカップリングとして収録していたCDを聞いたことがある。最近はよく演奏されるようになり、録音も増えてきた(僕は他にNAXOS盤を所有している)。

 

現行版は主題と7つの変奏からなるが、実際の演奏では以前の稿を適宜合わせるケースがほとんどだ(2004年に出版されたヘンレ版によれば、A&B共々4曲ずつ変奏が残されている)。当盤では現行版をベースにA7、A11、B3、B4、B5を採用し、しかも独自の曲順に並べ替えて収録されている。北村氏は両端にテーマを配置、全体をシンメトリカルな3部形式に見立てた設計を施している(Var.4は省略している)。

 

「Thema / 3-2-A11-A7-1-6 / 5 / B4-B3-B5-7 / Thema」 


各変奏はまるで「交響的練習曲」のような味わいを持ち、傾聴させられる音楽だ。

とりわけVar.1やVar.5の悲劇的な重厚さ、B3での高音部の切実なパッセージなどは聞いていて胸を締め付けられる。ベートーヴェン研究の成果が生かされた個所として、「ベートーヴェンのイデー」と書き記されたA7では「田園交響曲」の響きが、Var.7では第7番と第9番のテーマが左右に現れ、中間部では第7番第1楽章が突如出現するという拘りぶりにも注目できる。

 

このように作品は興味深く聴き応えがあるのだが、北村氏の演奏は少し落ち着きがなく、荒っぽい。特にそれを感じるのはB5の扱いだ。この曲は「アルバム帳」Op.124~第2曲「苦悩の予感」と同じ曲なのだが、何故か北村氏は音価を切り詰めて演奏、本来であれば1分ほどの曲を18秒で終わらせてしまう。選曲のアイディアが良かっただけに残念である。

 

ベートーヴェン/交響曲第7番~第2楽章。歌曲集「遙かなる恋人に寄す」

と同時期の作品である。

 

「1-2-3-A6-4-A10-B7-5-B5-6-A7-7-B4-A11-B3」の順で演奏―。

テーマは省かれてるが、当盤より味わい深く聴ける。

 

 

 

 

3曲目はアルバムのメイン、シューマン/幻想曲ハ長調Op.17である。

ちょうど前述の練習曲が纏まった1835年12月に「ベートーヴェン記念碑」の建設費の寄付を巡る記事が新聞に出される―フランツ・リストを発起人として当時の多くの作曲家が諸手を挙げるのだが、当然シューマンもそこに加わることになった―。

 

雨の中、草原に寝そべっていた。するとひどい土砂降りとともにベートーヴェンのアイディアが降ってきた」(1836年9月のシューマンの日記から)

 

こうして書き上げた「ベートーヴェンに捧げるソナタ」が「幻想曲」の最初の姿である。その第3楽章(当初「勝利」と題されていた)では、ベートーヴェンの第7番の第2楽章―前曲の練習曲の主題―が現れるのである。晩年のベートーヴェンがそうであったように、各楽章はドイツ語の指示が付されている。第1楽章コーダではベートーヴェン/「遙かなる恋人に寄す」~第6曲の冒頭のテーマが引用され、クララが特に好んだという行進曲風の第2楽章はベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第28番を思わせる音楽ともなっている―特にコーダは演奏至難で知られる。当時これを弾きこなせるのはリストだけと言われていたそうだ―。作品は既に出来上がっていたにも関わらず、シューマンは改訂に改訂を重ねていたようである(ベートーヴェンの推敲ぶりに倣ったか)。そのため「幻想小曲集op.12」の出版が先になり、実際にこの曲の出版に至ったのは1839年であった。でも出版が長引いた一番の理由はクララ・ヴィークとの恋愛が父フリードリヒ・ヴィークによって大反対されていたことにあると思う―そのことが「幻想曲」をより情熱的にしたのではないだろうか。

 

「(第1楽章について)今までに書いたどんな曲よりも情熱的だろうと思う。それらはすべて君への悲嘆なのだ

 

第1楽章冒頭の広大な下降フレーズは、クララの作品に基づくもので過去のシューマンの作品でもたびたび登場している「クララの音型」であり、「伝説の音調で」と記された核心となる展開部のクライマックスでは、クララの音名が悲痛な叫びをあげる。この音楽が、ベートーヴェンへのリスペクトとともにクララへの愛と苦悩の表明ともいうべき二重の内容を持っていることは明らかであろう―。

 

 

前述したように初版におけるフィナーレのコーダでは、第1楽章に引用された「遙かなる恋人に寄す」が再び顔を出す。しかし現行版では全く新しいコーダが作曲し直されている。これにはどういう意味があるのだろうか―想像するしか他ない。

 

ここで歌詞の最後の一節を引用してみる―。

 

  そのとき、これらの歌の前では       dann vor diesen Liedern weichet,           ぼくらをひき離しているものが身を引き   Was geschieden uns so weit,               そして、恋する心は、恋する心が      Und ein liebend Herz erreichet,             あがめるもののもとへ行きつくでしょう!  Was ein liebend Herz geweiht 

 

実際に引用されるのは冒頭のメロディのみで、この部分の音楽は引用されることはないが、この行に予言的な内容を感じてしまうのは僕だけだろうか―「幻想曲」が出版された1839年、シューマンは最終手段としてクララとの結婚を巡り、訴訟を起こす。そして勝訴し、翌年には結ばれるのである。

 

 

作品は(クララへの想いに満たされているにもかかわらず)ベートーヴェン・プロジェクトの発起人であったリストに献呈された。返礼としてシューマンに献呈された「ピアノ・ソナタ ロ短調」の冒頭のフレーズが「幻想曲」冒頭の下降フレーズに基づいているのを当盤のライナーノーツを読んで初めて気づかされた次第である。その北村氏の演奏は思い入れたっぷりのもの。特にパウゼの扱いは大胆過ぎるほどだ。これまで接してきた演奏はスマートなものが多かった(所有しているデームス盤は例外)が、当盤ほど深い呼吸を感じさせる演奏は初めてかもしれない―特に両端楽章が顕著である。一方で行進曲風の第2楽章は若々しくスピーディに進められて、北村氏が録音当時19歳だったことを思い出す。技巧も高水準で素晴らしい。かえすがえす初版でなかったことが悔やまれる―。

 

 

イェルク・デームスによる2000年ライヴより。15分以降から幻想曲が聞ける。

初版による演奏―。中国の番組を録画したもののようだ。

 

 

 

 

幻想曲の素晴らしい演奏の後、収録されているのはアンコールのようなシューマン/歌曲からのピアノ編曲版より「春の夜」(S.568)&「献呈」(S.566)―もちろんリストによる編曲版だ。ピアノ・トランスクリプションの歴史はフランツ・リストから始まった、といっても過言ではないと思う(音楽史的にはバロック時代からあったらしい。そしてリストからラフマニノフ、ブゾーニらへ引き継がれる)。超絶技巧を生かし、ピアノの表現の可能性を押し進めるべくなされた数々の編曲作品(ソロだけでも200曲近くある)が原典主義からの批判に晒されるのは避けられないのかもしれない―かつての僕もそうだった―。今ではコンサートの余興を白熱させる素晴らしい役割を担っているが、単なるショーピース的な芸当に留まらない深さをそれらは備えているかもしれない―北村氏の演奏は、そんなことを考えさせてくれる示唆的なものだった。

 

 

リストの場合、シューベルト/歌曲の編曲が多い気がする。当時無名

に等しかったので啓蒙する意味合いもあったのかもしれない。

「糸を紡ぐグレートヒェン」「水の上で歌う」「魔王」を―。

 

クライスラー/ラフマニノフ編「愛の悲しみ」。ラフマニノフ本人の演奏で。

 

ピアノロールによる演奏―。意外なほど慎み深く聞こえる。

 

 

最初に演奏された「春の夜」は「リーダークライスOp.39」の最後を飾るナンバー。北村氏自身、このアルバム全体が「(リーダークライスのように)一つの作品となるような構成」を目指した、と述べているので、この曲が選ばれているのは必然といえる―アルバム冒頭のベートーヴェン/「連作歌曲集」ともリンクする―。

ロベルトとクララが正式に結ばれた1840年に突然堰を切ったが如く、140曲に及ぶ歌曲が誕生する―しかも作曲家として初ジャンルであるにも関わらず、だ。特定のジャンルに集中的に取り組むのはシューマンの作曲の特徴であるとはいえ、改めて驚かされる。「春の夜」も「献呈」もそんな喜びの塊のようなシューマンの心からあふれ出した名品の数々である。それらをリストがどう扱うのかが聞き所だろうか―。

 

歌曲のピアノ編曲というのは、当然歌手のパートもピアノ1台で演奏する。単なる焼き回しではなく、どうやってオリジナリティを吹き込むか(もしくは尊重しつつ、新たな姿を表現するか)―というのは、編曲する側&演奏する側にとってもなかなか奥が深い内容だと思う。この「春の夜」は正直オリジナルの方が良い気がするが、北村氏の演奏は幻想曲と同様、深い呼吸を感じさせるアコーギクと柔軟なテンポ設定で興味深く聴かせる。特に曲の後半では、時間が止まってしまったのでは?と思わせるほどの表現が聞かれ―幸せの絶頂の中、あの苦しかった日々が一瞬脳裏を掠めるかのよう―、奏者の「思い入れ」はここでも健在だ。

 

前半に「春の夜」、後半にラヴェル/「スカルボ」を黒木雪音が演奏―。

 

 

 

2曲目の「献呈」は「ミルテの花Op.26」の第1曲にあたる。これもまた連作歌曲集であり(複数の詩人が取り上げられている)、結婚前夜にクララへ捧げられた―まさに歌の花束である。ちなみに「ミルテの花」とは日本語でいうところの「ギンバイカ」。結婚式の飾りや花嫁のブーケなどに使われるので「イワイノキ(祝いの木)」とも呼ばれるそうだ。

 

#銀梅花 hashtag on Twitter

(画像はネットから拝借)

 

 

「献呈」は最近よく耳にする(ツイッターでもよく目にする)人気曲。愛する人の存在もさることながら、捧げる幸せを音に託したような音楽だ。歌曲はリュッケルト詩によるもので、文学に通じたシューマンらしい選択である。

 

 

きみこそはわが魂よ、わが心よ、     Du meine Seele, du mein Herz,

きみこそはわが楽しみ、わが苦しみよ、  Du meine Wonn', o du mein Schmerz,

きみこそはわが生を営む世界よ、     Du meine Welt, in der ich lebe,

きみこそはわが天翔ける天空よ、     Mein Himmel du, darein ich schwebe,

きみこそはわが心の悶えを        O du mein Grab, in das hinab

とこしえに葬ったわが墓穴よ!      Ich ewig meinen Kummer Gab !

 

きみこそはわが安らぎよ、和みよ、   Du bist die Ruh, du bist der Frieden,

きみこそは天から授かったものよ、  Du bist vom Himmel mir beschieden. 

きみの愛こそわが価値を悟らせ   Dass du mich liebst, macht mich mir wert,

きみの眼差しこそわが心をきよめ、   Dein Blick hat mich vor mir verklart,

きみの愛こそわれを高めるものよ、   Du hebst mich liebend über mich,

わが善い霊よ、よりよいわが身よ!   Mein guter Geist, mein bress'res Ich !

 

 

この曲をより印象的なものにしているのが、コーダ付近で突如登場するシューベルト/「アヴェ・マリア」の旋律である(正式には「エレンの歌第3番」。ウォルター・スコットの叙事詩「湖上の美人」のなかで、娘エレンが父の無事を聖母マリアに嘆願する内容であり、宗教曲ではない)。それも音楽の流れを妨げるような違和感はなく、思い出したかのように現れるのである。しかも引用の理由は定かではない(そのためか、ライナーノーツの中でも触れられていない)が、1つの可能性として、当時のクララのピアノ・レパートリーにこの「アヴェ・マリア」が含まれており、ロベルトの手紙により励まされたクララが「とても美しく弾いた」おかげでコンサートは大成功に終わった思い出と関連しているのではないか、との示唆に富む分析がある。その数か月後にクララは思いもかけずシューマンから「献呈」を贈られるのである。ちなみにクララが弾いたヴァージョンはリスト編曲によるものかもしれない(1838年編曲)。

 

ウクライナのピアニスト、ヴァレンティーナ・リシッツァの演奏で―。

 

 

 

リストがシューマン/「献呈」をピアノ編曲したのは冒頭のベートーヴェン/「遙かなる恋人に寄す」と同じ1849年のこと。一方で「春の夜」は20年以上後の1872年の編曲。リスト編曲版の(華々しい)「献呈」については苦々しい気持ちを隠さなかったクララであった―美しい思い出が汚された感じがしたのだろうか―が、リストはロベルト亡き後のクララに対して、尊敬を込めた極めて丁重な接し方をし、これまで以上にシューマン作品を演奏することを確約したといわれる。リストのピアノ・トランスクリプションには作曲家へのリスペクトが根底に存在しているのである―。

 

アルゲリッチによる「献呈」。さり気なくはじまるその演奏は編曲者リスト

よりも原曲のシューマン(とクララ)を思わせる―。

 

クララ・シューマンによる慎ましい編曲版。1872年頃に編曲されたようだ。

 

 

 

 

 

 

ライナーノーツの最後にはシューマンのこのような言葉が引用されている―。

 

芸術家の使命は、人間の心の深奥に光を送ることである

 

 

北村朋幹のピアノは一筋の光となるかもしれない。