2022年の今年、生誕90周年・没後40年のアニヴァーサリー・イヤーとなっているピアニスト、グレン・グールド(1932/09/25-1982/10/04)のメルクマール的存在のアルバムの映像版。フランスの映像作家でヴァイオリニストでもあるブリュノ・モンサンジョンによって録音セッションと並行して収録、1983年10月17日に放映されたもののようである(ちなみに初のブルーレイ盤がリリースされる予定)。
「もはや他に何を語る必要があるのだろうか」―と思えるくらい、数えきれないほどの賛辞と解説が重ねられてきた演奏である。デビュー盤の再録音となったこのゴルトベルク、CD盤のライナーノーツでは各変奏ごとに詳細なアナリーゼが記されていたのを思い出す。僕も大多数の人々と同じく、このアルバムをずっと聞き続けてきた。他のピアニストやチェンバロの演奏、弦楽合奏やトリオによる編曲版など他の演奏を聞いても、結局この盤に戻ってくる―グールド以降のピアニストがこの「呪縛」から逃れるためにいくら奮闘したとしても、だ―。
以前はよくデビュー盤(1955年)との比較がなされ、どちらが好きか?と言われたものだが、あるインタビューでポゴレリチが55年盤を推していたので、それを中心に聞いていた時期もあった。颯爽とドライな音色でドライヴする音楽…。グールド自身による詩的なライナーノーツ(確かボードレールを引用)の中で、ト短調の変奏が「センティメンタルでショパンのノクターンのよう」だと自虐していたのが懐かしい。
直感的な手触りの旧盤、その26年後、パルスの持続をメインに何処までも徹底され吟味され尽くした感のある新盤(当演奏)の他に、59年のザルツブルク・ライヴ盤やコンサート活動をしていた時期の他のライヴ録音、さらにはデビュー盤以前の(ビックリするほどロマンティックな)演奏盤など、今では何種類もあるグールドのゴルトベルクをほぼ全部聞いてみると、グールドを超える演奏はグールド自身にしか成し得ないのだ、と痛感する(僕の現在の所有盤は1958年ヴァンクーバーでのライヴ盤)。
1957年モスクワでのライヴ音源。独特の構成で変奏曲を並べる。
55年盤と81年盤の聞き比べ―アリアと第15変奏を。どちらが好き?
「ゴルトベルク」と言えばハンニバル・レクター。81年盤のアリア
を素材にしたオープニングは電子音を交えていて結構好き。
「狂気」の食事の場面(過激な映像なので注意されたし)。
電子処理された第25変奏が皮肉にも美しく響く―。
「時をかける少女」では第1変奏が絶妙な仕方で用いられる―。
ゴルトベルク変奏曲はタイムマシーンだ。
僕自身年齢を重ねることで、この81年盤をこよなく愛するようになった。若者にはない叡智がここに感じられるからである―歳を取るのも悪くない、と感じさせてくれる。最初遅いテンポのアリアを聞いた時ノスタルジックなものを感じ、最後のアリア・ダ・カーポで最後の音を単音で終わるのに感慨深さを覚えたが、各所に聞かれるスローテンポは情緒のためではなく、パルスの連続性や和音の柱を生かすためのテンポであり、全ては構造を明らかにするための手段であることを知った時、そのクールな知性に圧倒されたのだった。そして、その驚きやある種の謎は当盤の映像を観るとさらに深くなり、感動させられる―それは知的な恍惚感なのだ。
演奏を観てすぐに気づくのは、その見慣れないピアノの姿である―。
多くの人々が指摘するようにヤマハのピアノであるらしいが、鍵盤の正面の板が外され、鍵盤の奥が剥き出しになっている状態なのだ(よってメーカーのサインも確認できない)。その姿はまるで二段鍵盤のチェンバロのようにも見える(もちろん錯覚だ)。僕は鍵盤の重さの微調整のため、と推測している(もちろん真実は分からない)。他は「いつもの」グールドで、唖然とする演奏ぶりにただただ魅入るばかりである―。
プレイ前のイントロダクションではナレーションの後、レコーディングの様子が映し出され、モンサンジョンとの対話では、再録音に踏み切った理由がグールド自身の口から語られる。実際の内容は記事の最後に添付した動画をご覧いただくとして、僕が驚いたのはコンサート・ドロップアウト以降、20年以上この曲を一度も演奏していなかったという事実である。グールドにとっても本当に久しぶりな演奏&録音であったということだ(再録音自体珍しいことのようだ)。
まさに満を持してのこのレコーディングは、グールドが生涯を閉じる約1か月前の1982年9月にリリースされ、生前に発売された最後のアルバムとなった―。
さて、このアニヴァーサリー・イヤーで(発売40周年を迎えた)81年盤の全テイクが収録されたアルバム(CD11枚組)が先日リリースされた。
ここで明らかになったレコーディングの驚くべき内容とセッションの全行程を以下にコピペする(上記サイトより)―。
● 1981年4月22日&23日のセッション
アリア:テイク1
第1変奏:テイク1~4
第2変奏:テイク1・2・4・5・7
第3変奏:テイク1~4
第4変奏:テイク1・5・6
第6変奏:テイク1・3・5・6
第7変奏:テイク1・2
第9変奏:テイク1~5
第10変奏:テイク1~8・10
● 1981年4月23日のセッション
第11変奏:テイク1、インサート1(テイク1~4)、インサート2(テイク1~3)、インサート3(テイク1~9)
第12変奏:テイク1~8、インサート1(テイク1~4)
第13変奏:テイク1・2、インサート1(テイク1・3・4)、テイク3・4
第14変奏:テイク1・2
第15変奏:テイク1~3
● 1981年4月24日&25日のセッション
第16変奏:テイク1~3、第2部(テイク1・2)、第2部インサート1(テイク1~4)
第17変奏:テイク1~3
第18変奏:テイク1~10
第8変奏:テイク1
第3変奏:リメイク テイク1~4・6
第1変奏:インサート テイク1~3・6~10
第2変奏:インサート1 テイク1~3
第4変奏:インサート1 テイク1~3、インサート2 テイク1~4
● 1981年4月25日のセッション
第6変奏:インサート1 テイク1~5
第7変奏:インサート1 テイク2~4、インサート2 テイク1、インサート3 テイク1、インサート4 テイク1~3、インサート5 テイク2~5
第9変奏:インサート1 テイク1~4、インサート2 テイク1~3
第10変奏:インサート1 テイク1・2、インサート2 テイク1~3、インサート3 テイク1~4
第12変奏:インサート1 テイク1~4、インサート2 テイク1~3
第13変奏:インサート1 テイク1・2、インサート2 テイク1~4、インサート1 テイク3・4
第14変奏:インサート1 テイク1~4、インサート2 テイク1、インサート3 録音用テイク1・2 ビデオ用テイク1・2
第16変奏:インサート1 テイク1~3
第17変奏:インサート1 テイク1・2、インサート2 テイク2~9、インサート3 テイク3~5、インサート2 テイク10・11
第8変奏:インサート1 テイク1~3、インサート2 テイク1・2、インサート3 テイク1・2
● 1981年5月12日のセッション
第19変奏:テイク1~7
第21変奏:テイク1
第22変奏:テイク1~5、インサート1 テイク1・2
第23変奏:テイク1~4、インサート1、テイク1~6、インサート2 テイク1~6
第24変奏:テイク1~3
第25変奏
● 1981年5月13日のセッション
第25変奏:インサート1 テイク1~3
第26変奏:テイク1~15
第27変奏:テイク1~4、インサート1 テイク1~4
第28変奏:テイク1~4、インサート1 テイク1・2、インサート2 テイク1・2、インサート3 テイク1・2
第29変奏:テイク1・2、インサート1 テイク1・2、インサート2 テイク1
第30変奏:テイク(番号なし)
第29変奏:インサート2、テイク2
第30変奏:テイク(番号なし)
第29変奏:インサート2、テイク3
第30変奏:テイク(番号なし)
● 1981年5月14日&15日のセッション
アリア・ダ・カーポ:テイク1、インサート1 テイク1・2、インサート2 テイク1・2
第20変奏:テイク1~11
第5変奏:テイク1~5
第26変奏:インサート1 テイク1・2
第27変奏:インサート1 テイク1~3、インサート2 テイク1~3
第29変奏:インサート1 テイク1・2
第24変奏:リメイク テイク1~10
第30変奏:リメイク テイク1~3
アリア:リメイク テイク1~3
● 1981年5月16日のセッション
アリア:リメイク2 テイク1~6
アリア・ダ・カーポ:インサート1 テイク1・2
第25変奏:リメイク テイク1~3
第20変奏:インサート1 テイク2
アリア・ダ・カーポ:インサート1テイク2へのインサート テイク1~3
● 1981年5月16日&19日のセッション
第25変奏:インサート1 テイク1~3、インサート2 テイク1・2、インサート3 テイク1~3
第5変奏:インサート1 テイク1~3
第24変奏:リメイク 第2部へのインサート テイク1~5
第10変奏:リメイク インサート1 テイク1~4、インサート2 テイク1・2、インサート3 テイク1~4
第14変奏:インサート1 テイク1・2、録音用テイク1・2
第25変奏:リメイク インサート1 テイク1~3、インサート2 テイク1~3
第8変奏:インサート テイク1~6
実に多くのテイクを残していることがわかるが、グールドがどのテイクを採用したのかは上記のアルバムを入手しないと分からないのかも知れない。ただ1つだけ、当DVD盤のイントロダクションでの演奏風景でテイク9と10に言及していた箇所があった(第18変奏)。ここでグールドは「リピートの意味が感じられる」としてテイク10を採用していたのだった。
55年旧盤では冒頭のアリアを最後に録音したといわれているが、ここではアリアから順番に録音しているのが大変興味深い。グールドがアリアから派生するリズムとパルスの連続性に重きを置いていたことが伺える内容である。4月のセッションを見ると、最初は順番通りだが、後半は再び取り上げたり、と調整していることがわかる(最後の25日は特に入念だ)。5月のセッションでは後半の変奏を主に録音、アリアにもリメイクを施す。前半の変奏にも遡り、吟味している様子を見ることができる(第8変奏に神経を使っている感じがする)。そして「録音用」と「ビデオ用」テイクがあることにも気づく―だから厳密に言えば、CD盤と映像盤は一部テイクが異なる、ということになる。上記のサイトでも以下の説明が載せられていた―。
「グールドは、各テイクでの自らの演奏の出来を瞬時に判断し、しかも正確に記憶しており、各変奏をレコーディングする際、必ずその前の変奏のテイクの最後の部分をプレイバックしてテンポや表情を確認してから弾き始めていることから、この2回目の録音に当たっては、作品全体の構造を強く意識していたことがよくわかります。また映像用にやや演奏にメリハリを付けることもあり(セッション中にグールドが「これは映像用の演奏」と指定する場面も)、ビデオ用の演奏とレコーディング用の演奏の違いも明確に把握していました。」
第8変奏。最初のセッションで省き、3日目にようやく取り上げ、
最終日にも調整を図っている。
第25変奏。後半のセクションで最も力を入れていたように感じられる。
僕の好きな第13変奏を両盤の演奏で―。僕の好みは81年盤。
ここでのグールドの姿に、若き日の美男子の面影を見つけるには想像力が必要だが、テクニックは完璧、没頭性も素晴らしく、僕たちもグールドが演奏中に感じていたであろうエクスタシーを共有することができる―映像の力は大きい。実際、グールドが1曲まるまると連続演奏してくれたかのように編集されている。そして長い指と手のしなやかさと美しさは今も昔も変わらない―。CD盤だけでは勿体ない、是非この映像盤も手元において欲しいと思えた至福のひとときであった。
ちなみに本編のほか、付録として以下のフォトグラフ等が添付されている―。
【ボーナス映像収録内容】
・About Glenn Gould
インタビュー映像(音声:英語、1分57秒)
バイオグラフィ(文字情報、12ページ)
ソニーへのバッハ録音ディスコグラフィ(文字情報、17ページ)
写真集(モノクロ、3点)
WEB LINK TO GLENN GOULD WEB SITE(コンピュータでの視聴時のみ作動)
・Gould and The Goldberg Variations
1981年録音のアメリカ盤初出LPライナーノート(文字情報、8ページ)
当映像のアメリカ初出VIDEOライナーノート(文字情報、9ページ)
1955年録音のアメリカ初出LPライナーノート(文字情報、15ページ)
・Behind The Scenes
写真集(モノクロ、4点)
ブリュノ・モンサンジョンのバイオグラフィ(文字情報、1ページ)
コロムビア30番街スタジオの歴史(文字情報、7ページ)
・About J.S.Bach
バイオグラフィ(文字情報、11ページ)
バッハの家計図(文字情報、1ページ)
日本語字幕付きで楽しめるマストな動画。後半はバッハをピアノで弾く
意義について。もちろん演奏も。つい見入ってしまう―。
トロント・マウントプレザント墓地にあるグールドの墓には、ゴルトベルク変奏曲のアリアの冒頭が刻まれている。先日10月4日が彼の命日であった―。