グレン・グールド&ゲオルグ・ルートヴィヒ・ヨッフム/スウェーデン放送交響楽団によるバッハ/ピアノ協奏曲第1番ニ短調&ゴルトベルク変奏曲が収められているアルバム。前者は1958年10月ストックホルムでのライヴ、後者は同年7月バンクーバーでのライヴ。協奏曲については、以前紹介したアルバム「GLENN GOULD in Stockholm,1958」と同時期の録音でありながら、諸事情で収められていなかった音源であり、実に貴重―これでストックホルムでの音源が揃うことになる。

 

 

 

 

 

 

アルバム最初は「音楽史上初の鍵盤協奏曲」とされる「バッハ/ピアノ協奏曲第1番ニ短調BWV1052」である(もちろんオリジナルは「チェンバロ協奏曲」。作品自体は他のバッハ作品によく見られるようにカンタータなどからの転用である)。昨今の傾向でピリオド演奏が主流になってきた中、この演奏は「旧時代の演奏」に位置することは否めない。ただ、このニュアンスは他には求められないのも事実なのだ。確かにオケの重心は低く、テンポもどんよりしている。録音のせいだけではないと思う。ピアノも鬱々としている。おかげでこの曲が持つ暗さが際立っている。「ニ短調」という調性が僕は好きだ。すべてに当てはまるわけじゃないけど、「調性」と「性格」は類似すると思う。

 

第1楽章の中で僕が好きなのは展開部の流れだ。バロック時代の―特にバッハの鍵盤楽器のための協奏曲では、独奏部がいわゆるソロパートと通奏低音の役割を同時に担っている、という点で、古典派のピアノ協奏曲と異なっていると思う(この感覚を古典派以降の協奏曲に採用しようとしたのがグールドだった。だからオケのみのパートであってもピアノでオブリガートするのだ)。展開部においてもそうで、それらは区別がつかないほどである。そこが面白い。ピアノが装飾してゆくフレーズが切なくて良いし、ミニマリズムを感じさせるのも興味深い。オクターヴ連打するフレーズが格好いい。再現部~コーダに向けて、じわじわと情熱が高まってゆくのもいい。

 

第2楽章はさらなる憂鬱の森の奥へ入ってゆく感じ―それでも奇妙な穏やかさが存在する。

 

第3楽章は第1楽章と同じく「Allegro」だが、心持ち落ち着いたテンポで進行する。この楽章が8分20秒なのに対し、第1楽章は8分10秒。両端楽章を同程度のテンポ感で設計しているのだろうか―。確かに、全楽章通じて同じパルスを感じる。この演奏では流動感が一定で、まるで「見えない通奏低音」として働いているかのようだ。曲後半のカデンツァでもテンポを崩すことがない。ライヴであっても構築感を目指した演奏―といってもいいのかもしれない。

 

1960年、バーンスタイン/NYPとの共演から第1楽章。グレンの登場は5分後。

陶酔感を感じさせる演奏。この曲でそう感じるのはグールドのみだ。

 

第1楽章。最近は流行なのかヴァイオリン協奏曲版も聞かれるようになった。

このファウスト盤もしかり。超絶技巧が求められるのは聞いてても分かる。

 

第3楽章。ピリオド演奏だが、ブラームスのカデンツァを採用。斬新だ。

 

チェンバロによる演奏ではこのピノック盤が今でも僕の中では一番良い印象

を持っている。所有していたこともあったアルバムである。

 

 

 

 

 

さて、次の「ゴルトベルク変奏曲BWV988」は、言わずと知れたグールドの代名詞だ(影響を受けない人が果たしているだろうか―新旧とも決して廃盤にならない録音だと思う。今ではデビュー以前の録音も聞けるようになり、数種類に及ぶ)。最初と最後の正式録音が「GoldberG」だった「Glenn Gould」―「アナグラム」による、ちょっとした「遊び」だが、ちょっと興味深い(本人の狙いなのかどうかはわからないが)―。僕も色々な演奏を聴いてきたが、やはりグールド新旧盤は依然特別な存在だ。モダン・ピアノで印象に残っているのはガヴリーロフ盤。リピートを全て敢行して1枚のアルバムに収めてしまったこと自体、驚くべき技巧である。ソコロフ盤はちゃんと2枚組で、丹念かつ彼ならではの深みを感じさせる演奏を繰り広げる。デビュー盤となったシュタットフェルト盤では、アリアの反復でオクターヴ上げが敢行されて驚かされた。続く変奏でもアイディアが盛り込まれている。チェンバロではヴァルヒャ盤やレオンハルト盤があったが、挙げるとすればシュタイアー盤であろうか。チェンバロの音には僕なりの好みがあるので、楽器と録音状態がかなり影響するが、シュタイアー盤を購入していたということは比較的良かったのかもしれない。でも現在手元に無いということはそういうことである。キース・ジャレット盤も気にはなったが、購入までには至っていない。

 

この録音は、一世風靡したデビュー・レコーディングから3年後のライヴ音源だが、スタンスは殆ど同じだ。勿論、異なる点もある。一番の違いは、おそらく編集なしの一発録りであること。だから当然演奏に疵がある。指がもつれてしまう場面がいくつかある。何度も聞いてるとその場面の直前、ついつい構えてしまう―録音媒体のマイナス面だ。

 

聴衆は心のどこかで演奏ミスを期待している 」―確かグールド自身の言葉だった、と記憶している。心に刺さる。でも、ミスをものともせずに音楽の核心へなりふり構わず突進する若きピアニストの姿がここにある(当時26歳)。

 

スタジオ録音では幾分感傷的だったVar.25(「ショパンのようだ」と自身が述懐している)を、引き締まった感覚で、クールに奏でている(タイムは4分弱)のが印象的。Var.29から繋ぎ目なしで奏されるVar.30:クオドリベットの前半パートで、スタジオ録音にないリピートを敢行していることに驚く。この効果はなかなかのもので、おかげで「終結感」が強調されているように感じられる。後のザルツブルク音楽祭でのライヴでも同じリピート解釈をしている。ダ・カーポされる「アリア」は1分49秒。冒頭の「アリア」は1分48秒。ライヴでこれだ。演奏のパルスの正確さは凄まじい。

 

1959年8月ザルツブルク音楽祭ライヴから。第28変奏~アリア・ダ・カーポ。

 

 

 

 

この数年後、コンサート・ドロップアウトを宣言することになるわけだが、周りからどのように見えようと、この人は「音楽」「演奏芸術」に関して感傷や情緒に流されない「強い人」なのかな―と感じた。と同時に「コントロール願望」も強かったに違いない、とも思う。

 

(2021年執筆時点で) 没後40年が経とうとしているが、現在であっても色々な意味で注目せざるを得ない、放っておけないピアニストである―。

 

ザルツブルク・ライヴではモーツァルトのソナタK.330も印象深く演奏された。

こちらはその第2~3楽章。特にアンダンテ・カンタービレの美しさが際立つ。

 

1964年CBC放送の映像。独自の配列で弾いている(3の倍数で)。

途中グールド自身のコメントを挟む。

 

グールド晩年のゴルトベルク。ありがたいことに日本語字幕で楽しめる。

後半はバッハ哲学を語ると共に、大嫌いな「半音階幻想曲」を楽しそうに

弾く。「情が深く哲学的な安らぎ」のあるパルティータ第4番にも注目。

 

マルティン・シュタットフェルトによる「アリア」。オクターヴ上げには驚く。

グールドと同じく、この曲が前述の通りデビュー・アルバムとなった。

 

ラインベルガー&レーガー編曲による2台ピアノ版。数曲セレクト。

 

この「アリア」は弦楽三重奏にリュートが加わった珍しい編成。

 

「アリア」は「アリア」でもこちらは「G線上のアリア」。シロティ編曲版で。