どうも、新芽取亜です―。
この度、シリーズものの企画をご用意させていただき、僕なりに深められるところまで深めていきたいと思っておりました。その企画とは「音楽と○○」シリーズ。つい最近取り上げた記事「138億年の音楽史」(浦久俊彦著)に刺激されたから、かもしれませんが、もう少しテーマを絞り、もし「核心」のようなものがあるなら、どこまで迫れるのか、挑戦してみたい思いが募ってきたからでもあります。
第1回目の今回は「音楽と人格」というテーマで思考を推し進めていきたいと思います―。
僕がこのテーマを思い浮かんだのには、もちろん理由がある―。
上記の本の中で、「ナチス・ドイツ」における音楽の「誤用」について扱われていたのだが、この箇所を読みながら同時に僕は以前何かで見聞きした状況を思い出していた―。
それは、ユダヤ人の虐殺を「仕事」のようにこなしている兵士たちが休憩中、ヴァイオリン片手にモーツァルトを弾いて楽しんでいた―という状況である。
僕は考えざるを得なかった―そこで響いたモーツァルトは、果たして僕たちが耳にして親しんでいるモーツァルトと同じ音楽なのだろうか、と。無実の人々の血で汚れた手で弾かれる音楽は、果たして美しく響くのだろうか―と。
「音楽」そのものに「罪」がないのは当然の見方であるにしても、演奏者や作曲家の「人格」はどこまで「音楽」に影響を及ぼしうるのであろうか―。
先ほど挙げた状況は、現在においては有難いことに「特殊」な事情である(本当にそうだと良いのだが)。有名なアイヒマンの証言にもあったように、「彼ら」は全体主義的「イデオロギー」のもと、いわば「無感情」に、極めて効率的に、システマティックに「案件」を処理したにすぎなかった。だから「仕事のあとの一服」のように、音楽の素養のある者が楽器を奏でても別に不思議はないのだ(「モーツァルト」であったことが衝撃的だったのだろうか―。「レクイエム」の一節だったら良かったのだろうか―。あるいは、もしベートーヴェンやワーグナーだったらどうだろう?少しは衝撃が和らぐのであろうか)。
現在「サイコパス」と呼ばれる人々が奏でる音楽は、彼らと同じく「心」の所在が感じられない、「無感動」の音楽と成り得るのであろうか―。いや、もし卓越した技巧の持ち主なら、かえって「緊張して我を失う」ことと無縁の冷徹な「彼ら」としてはむしろ、軽々と演奏をこなしてしまうかもしれない、とも思う。もし僕たちがその演奏を聞く機会が訪れたら、どう感じるであろうか―。
もしかしたら、僕たちは既に「彼ら」の演奏に出会っているかもしれない―。
軽快にモーツァルトを弾くハンニバル・レクター博士。サイコパス特有の記憶力
の良さは細密画のようなスケッチにも現れる。芸術を嗜む姿が描かれる。
ドラマの中の世界ではあるが―。
彼は「特殊な嗜好」を持つ美食家でもあった―。美しい料理の数々―。
身のこなしも素敵だ。ヴィヴァルディ/「夏」を聞いて初めて恐怖を覚えた。
この記事を書いている段階で、オリンピックに関わるニュースが飛び込んできた―。
例の小山田氏の件だ―。残念ながら、この記事にドンピシャな内容であった。
僕は「コーネリアス」名義の彼の音楽に、あまり接する機会がなかった。「フリッパーズ・ギター」時代の音楽くらいだろうか。小沢健二とともに「渋谷系」で鳴らしたころのことだ(僕はオザケン派だったが)。音の配置やサウンドの扱い方に独特の感覚を誰しも感じるような音楽性だったと思う―。
だが今回の件が明るみになった以上、かつてと同じ視点と価値観で判断することはきわめて難しいことだろう。たとえ卓越した音楽センスを有していたとしても、である(彼から一瞬感じた「無機質」な音感覚は「何か」を示しているのだろうか)。
「過去」のことであるとはいえ、僕たちの感情の「生理」をひどく逆撫でする「事実」であることに変わりはないし、TPOと道徳観や倫理観が完全に無視された「抜擢」であったことは明らかで非難されても仕方のないことだと思う。
でも「音楽」そのものに「罪」はない。むしろ僕に言わせれば、「音楽」も「被害者」なのだ―。
「因果応報」ではないが、「過去」が「現在」に追いつき、「現在」が「過去」に飲み込まれてしまった、誰にとっても悲しみとやるせなさだけが残る結果となってしまったと思う。
「フリッパーズ・ギター」時代のいわゆる「オシャレ系」の音楽。もちろん、彼の音楽を金輪際聴かないという選択肢も尊重したい。
「攻殻機動隊ARISE」のエンディング曲。「人として大事な何かが死んじゃってる感じ」というのはコーネリアス本人の言葉―。重い言葉だ。
当時の懐かしい映像が一部載せられている。はたして2021年東京オリンピック開会式はどうなることやら―。
そういえば、小山田氏を葬った「何者か」の「矛先」は、次に「五輪開会式ディレクター」の小林賢太郎氏に向けられ、彼は解任に至ったようだ。かつて「ラーメンズ」時代(僕は結構好きだった)の「ホロコースト」をネタにしたコントが非難の対象となり、ユダヤ人擁護団体からも抗議が噴出することに。小山田氏の件がひと段落したタイミングで明るみに出た感が強い。
僕としてはこの記事を「ホロコースト」の件で始めているだけあって(書き始めて数週間放置していた)、不思議なシンパシーを感じている。
彼らのコントで一番好きかも知れない。「条例が出た」の言葉で始まる。この度出た「条例」はかなり手痛いものであっただろう―。
内省的雰囲気で始まるコントだが、突如「笑い」が舞い降り、状況が一変。
ちなみにコンビ名の由来はドイツ語の「rahmen」とか、いわゆる「ラーメン」
とか、諸説あるという。前者なら「枠」の意味で、複数で「箱」になり、「舞台」
との関わりが濃厚になる。
さて、作曲家の「人格」は、果たして楽曲に影響を及ぼしているのだろうか―。
実のところ、確認するすべがない―。このフレーズに作曲家の○○な性格が現れている、と言われても、実際のところ、「感性」の領域を出ないのである。知識や、スタンス、ある程度の作曲技術があれば、音楽は一応「かたち」となって現れる。作曲者の人格そのものが、「音」とその結果である「音楽」に影響を与えるとは、僕は考えにくいのである―。
例えば、一時期(もしかすると今でも)シューマンの後期作品は、精神の不調の兆しが垣間見えると評されていた。同心円状に反復をしつこく繰り返すフレーズなどはその一例である。ただ、その傾向は初期の作品にもわずかに見られる。彼の「個性」そのものなのだ、と僕は感じているし、そういうところを好んですらいる。
あるいは「人格」=「個性」と据えたなら、どうか―。
そうなればもっと分かり易いし、すぐに答えは出るような気がする。「個性」が存在しない音楽は存在しない、と思う。「音楽」=「個性」だ、といっても不思議な感じはしない。
じゃあ、「音楽」=「人格」となると、どうも二の足を踏む感覚が生じる。
この違いは一体何なのか―。
現時点で直ぐに答えが出るようなことではないかもしれないが、もしかすると「言語的な問題」なのかもしれない。「個性」は「音楽」にも当てはめようと思えば当てはめられるが、「人格」は「人間」にしか当てはめられない言葉である、ただそれだけなのかもしれない。
映画「アマデウス」はモーツァルトの享楽性を描いたことで話題になったものである。
「神に愛される」(ミドルネームの「アマデウス」にはそのような意味がある)愛すべき永遠の作品を残す一方で、その破廉恥で下品な性格が示されていた。その種のネーミングの「カノン」が実際に存在するのだから―。
フィクションであるとはいえ、興味深い内容である。「聖」と「俗」が、かわるがわる現れるところに、僕たちは「天才」であると同時に「人間」であるモーツァルトを観る―。
俳優が見事に演じきる。何といっても、あの「笑い」は強烈な印象を残す。
「僕は下品な人間ですが、僕の音楽はそうではありません」
例の「カノン」K.231。美声で歌われている。
クラシック音楽の特徴の1つに「作曲者ノットイコール演奏者」というのがあると思う(もちろん全てではない)。なので、「演奏者の人となりが音楽に影響を及ぼしうるか」―という点も考えなくてはならない。そしてこちらの方がむしろ切実かつ身近かもしれない。
結論を急ぐと、前述の「作曲家」のケースとは異なり、「演奏者」の人格性は如実に音楽に現れると思う―。実のところ、これは思慮を重ねた結論ではなく、実際に聴取したら、誰でも気づくことだ。テクニックや解釈の相違だけが演奏者の音楽を彩っているわけではない。
人間の脳が持つ能力の1つに、道具を使いこなす能力がある。僕たちは当たり前に箸やフォークなどを使って食事をするし、ハンドルを握り、アクセルをふかし、キーボードを叩く。職人であれば、道具を器用に使いこなし、演奏家であれば、楽器との一体感を感じることだろう。それら「道具」を自分の手や足などの延長線上の「もの」として据え、自分の一部とみなす能力が人間には備わっているのだ。猿にもあるらしいが、人とは比べ物にならない。
楽器を手にし(あるいは前にし)、弓を当てる(あるいは鍵盤に指をセットする)―その途端、自分の一部となる。思いを、感情を、意思を伝える「ソース」となるのだ。
そうして奏でられる「音楽」に何も宿らない、ということがあり得るだろうか―。
心の震えが指に、声に伝わる―。
その震えが空間に満ちている空気を震わせ、僕たちの心をも震わせるのだ―。
もしも、演奏者の「人格」が音楽に反映されないのなら、「彼ら」はなぜ音楽を奏でているのだろうか―。なぜ僕を含むリスナーが「彼ら」の奏でる音楽を聴こうとするのだろうか―。
それは「彼ら」が音楽に「自ら」を注いでいるからに他ならない。それを僕たちが感じているからに他ならないのである―。
図書館で読んだ本の中には「暴露本」のようなものもあって、著名な指揮者の「裏の顔」のような話題が取り上げられていた(この種のゴシップは何故か指揮者が多い)。往年の指揮者ほどネタには事欠かないようである。良くも悪くもこうした話題は正直面白い。意外に思ったり、見たまま聞いたままであったり、反応は様々。それで嫌いになってしまうケースもあるだろう。
「レコーディング」の裏側のような話はさらに衝撃的だ―。巷で「名演」「名盤」と仰がれている演奏のウラ側では実は…という話が意外なほど多いことに気づく。
当たり前なのだが、演奏する側も聞く側も「人間」なのだと、改めて感じ入る次第である―。
小澤征爾/サイトウ・キネンOによるモーツァルト/K.136~第2楽章。
万感の思いで演奏されている。師斎藤秀雄への感謝の思いである。
この記事を書こうと思った時、必ず触れようと思った演奏である。
ドビュッシー/「亜麻色の髪の乙女」。ヴァイオリン&ピアノ版。庄司紗矢香
が共演を熱望したメナヘム・プレスラーとのデュオ・リサイタルのライヴ盤。
御年90歳のプレスラー、60歳差のコラボレーションとなった。
ドビュッシー/「月の光」。ピアニストとして、ボザール・トリオを50年以上務め、
90歳で(!)ソロ・デビューを果たす。この演奏を聞いて、何も感じないという
ことはおそらくあり得ないだろう。
ある音楽家の言葉が記憶に残っている―。
「…(音楽を)聴くだけでもいいけれど、演奏するという行為は生命の営みだ…」
素晴らしく、心からの言葉だと思う―。
子孫を残すこと、良い人間関係を大切にすること、人を愛し尊ぶことetc…。
それらと肩を並べることは「音楽すること」なのである―。
「音楽」は確実に僕たちの心を豊かにしてくれる。
僕たちは「音楽」に何かしてあげられるのであろうか―。
新芽 取亜でした―。