アイヴァー・ボルトン/ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団他による、最晩年のモーツァルトの遺作と最新鋭の現代曲とのコラボレーション。世界初演ライヴだ。録音は2005年12月4日―約200年前の12月5日の明け方にモーツァルトは天に召される。まさに「その日」は最後の力を振り絞って「レクィエム」を作曲していたに違いない(もしかすると「ラクリモーサ」執筆中だったかもしれない)。まさしく演奏にふさわしい日といえよう。
この世に「レクィエム」は数あれど、モツレクほど親しまれ、しばしば議論の対象とされ、愛されてきた作品はあるまい―。何といっても、天才の最期のエピソードと肉薄し、映画「アマデウス」で印象的に扱われ(フィクションだったが)、著名人の葬儀で演奏され(ショパンやJ.F.ケネディ)、現在でも補筆を試みる者が絶えない状況なのだから―。
映画「アマデウス」のなかで僕が一番好きなシーン。「ラクモリーサ」手前の
「コンフターティス」(呪われた者たち)の作曲をサリエリが代筆するのだが、
あまりの速さについていけない。天才と凡人の違いがよく演じられている。
臨終と埋葬のシーン。彼の死に際に立ち会った(という設定の)サリエリの
思いはどのようなものだったのだろう。
「短調偏愛主義」の僕がこの曲を聞かないはずはなく、実際多くの演奏を聞いてきた。最初はケルテス/VPO盤だったように思う(ベーム盤ではなかった。多分聞いてないと思う)。「火傷しそうなほど熱い演奏」みたいなキャッチコピーが「帯」に書いてあった記憶がある。それからカラヤン/VPO盤。ジャケットの「天使」が綺麗で、演奏も美しかったし、「怒りの日」の迫力も申し分なかった。
古楽を知ってからはアーノンクール旧盤を所有していたが、合唱が少し古めかしかった。ホグウッド盤はモーンダー版を採用した珍しい演奏で、結構気に入っていた。何しろジュスマイヤー版に関わる楽曲をカットし、発見されたばかりの「アーメン・フーガ」を導入。エマ・カークビーや少年合唱の採用など興味が尽きない演奏だった。
演奏も43分とかなり短い。清涼な演奏。モーンダー版での唯一の録音かも。
クルレンツィス盤は異色の演奏。「怒りの日」の特殊奏法や、「涙の日」の後、鈴の音とともに「アーメン・フーガ」が歌いだされる演出とかは、あざとすぎるくらいだったが、効果てきめんだった。合唱の静かなる歌声はオケのモノクロームな色調と相まって、死の世界をあらわにする―。
クルレンツィスの本領はオペラを含む声楽作品にある、と個人的には思う。
他にもチェリビダッケ/ミュンヘンpo盤(スケール極大)やアバド/BPO盤(得意の「折衷的」解釈。バイヤーやレヴィン版が顔を出す)、賛否両論のノリントン盤(かなり自由なドルーズ版)など、思い出せるのはこれくらいだが、他にも多分あると思う(所有盤以外なら、バーンスタイン盤やクリスティ盤、シェルヘン盤など多岐にわたる)。
こちらは弦楽四重奏版。クイケンらがピリオド楽器で穏やかに奏でる。
ツェルニーによる4手ピアノ編曲版。どう移し変えてるか興味津々。
「ラクモリーサ」のジャズ・ヴァージョン。アルトサックスがいい味出してる。
「版」の問題にしても、数多くの演奏ヴァージョンが存在するが(僕が認知してるだけで10種類を超える)、今回のように現代曲と合わせる試みは初と思われる。しかも肝心のモツレクの方は自筆楽譜によるフラグメントでの演奏なのだ―。実際に彼が完全に仕上げたのは最初の1曲だけ。あとはスケッチで残っているものばかり。だから演奏すると明らかに音が薄くなる。この演奏では通奏低音のオルガンが補っていくが、やはりスカスカ。迫力が欲しい「ディエス・イレ」とかは寂しい限りだ―。
この後ジュスマイヤー版などを聞くと本当に立派に聞こえる。改めて「補筆」の力がわかる―。
ただ、この「断片」たちはモーツァルトの魂の「欠片」なのだ。彼の心情の一端が垣間見える思いがする―。曲が進むたびに、音が薄くなる―。彼の生命力が枯渇してゆくさまを、その中でも最後の瞬間まで燃え盛ろうとする生きざまを、僕たちは目の当たりにする―。
あの華やかで親しみやすく、幸福感にあふれた音楽をいくつも生み出してきた天才作曲家の最後の作品がこれとは―。
だからこそ、僕は彼の全作品の中で、これこそが「最高傑作」だと思うのだ。
この作品に、僕はペルソナを外したアマデウスの素顔を見る―。
一方で、斬新なサウンドを聞かせるゲオルク・フリードリヒ・ハース(1953-)は「スペクトル楽派」と呼ばれる、音波を解析して倍音を合成するなどの手法を用いる作風だ。過去のブログで取り上げたジェラール・グリゼーもそうだ。
その作曲法による『モーツァルト「レクィエム」の断片に添える、「7つの音響空間 」』(2005)の世界初演の演奏が今回収められている。
用いられるテキストは、最晩年の1791年、モーツァルトがシュテファン大聖堂の楽長レオポルト・ホフマンに請われて副楽長へ就任した際の、ウィーン市議会からの書簡。その中身は酷いもので、不条理にも「無給のポスト」として受け入れるようにとの要請だったようだ。
ハースはモーツァルトの怒りと失意のないまぜになった複雑な感情を、現代音楽的な手法で代弁しているようにも感じられる―。
第1曲「永遠の安息を」(Requiem aeternam)ニ短調。「Adagio」。
弦がリズムを刻むなか、ファゴットが奏でる悲痛な響きに心打たれる―。
演奏は4分台と、モダン楽器による演奏では比較的あっさりと進む。
ヘンデル/「キャロライン王妃のための葬送アンセム」HWV264。
旧約聖書「哀歌」を中心としたテキスト。モツレク冒頭との近似性。
第2曲「憐れみたまえ」(Kyrie)ニ短調。
「Allegro」の表記だが、不思議とそれほど速さを感じないし、何故だか第1曲と同じテンポに聞こえる。オーケストレーションはかろうじて豊かなままだ。
ヘンデル/「デッティンゲン・アンセム」HWV265~最終フーガ。「キリエ」
と同じフレーズが確認できる。こちらは「ハレルヤ!」と神を賛美する一方
で、「キリエ」は主に憐れみを請う。その対比が興味深い―。
第3曲「怒りの日」(Dies irae)ニ短調。「Allegro assai」。
本来一番盛り上がる箇所なのだが、前述の通りオーケストレーションが弦楽のみとなり、オルガンが合いの手を加えるだけ―という何とも寂しい「ディエス・イレ」となった。まるで室内楽版のような演奏だが、しっかりと弾き抜いている。
第4曲「音響空間Ⅰ」(KlangraumⅠ)
一瞬「笙」のようにも聞こえなくもない高調波のビームが発射されるイメージ。
第1曲目の和音を基に奇怪な音響が出現する―。ブラスの響きが優先的。
何かしら不穏な空気が漂う―。
絶叫したと思うと途端に小声でまくしたてるようなコーラスが不気味ですらある。
第5曲「妙なるラッパ」(Tuba mirum)変ロ長調。「Andante」。
トロンボーンの響きが印象的な部分だが、前半しか登場しない。
控えめな弦。ソリストたちが歌いかわす―。少しホッとする一時ではある。
第6曲「音響空間Ⅱ」(KlangraumⅡ)
「Ⅰ」の時ほど刺激的ではないが、ブラスの音響が不吉である。
テキストが短い分、オケのパート(特に低音楽器群)が多く聞かれる。
第7曲「みいつの大王」(Rex tremendae)ト短調。
ここからはほぼ弦楽とオルガン、合唱のみとなる。僕たちの耳もそろそろ「断片」の響きに慣れてきて不足を感じなくなってくる―良いのか悪いのか―。
第8曲「音響空間Ⅲ」(Klangraum III)
「dergestalt」(~のように、~のほどに)という言葉が経文のように繰り返される。そんな中でも、弦の響きが繊細で良い。
第9曲 「思い出したまえ」(Recordare)ヘ長調。
久しぶりに木管の響きを聞く―。冒頭のみだが。
ソリストのアンサンブルがこんなに寛げるのは、やはり取り巻く環境のせいか。
第10曲.「音響空間IV」(Klangraum IV)
.奏でられるオケの一部に前曲の響きをエコーのように反映させている節を感じる。ここでは弦楽器―。全く異質の音楽に見えて、素材レヴェルで継承しているポイントがありそうだ。合唱は終始「語り」の口調で進める―。
第11曲 「呪われし者」(Confutatis)「イ短調」。
いよいよ核心に近づいてくる。この曲になると、次に何が来るのかわかるためか、淡い期待(?)が心を包む―。ほぼアタッカで次の曲に移る。
第12曲「涙の日」(Lacrimosa)ニ短調。「Larghetto」。
全曲の核心。モーツァルトの絶筆(8小節、"judicandus homo reus:" まで)。52秒の世界。
まるで死に目に立ち会ったかのようだ―。
第13曲「音響空間V」(Klangraum V)
テキストはない―。かわりに合唱は「心臓の鼓動」を口ずさみ、オケと打楽器は「呼吸音」を表現する。ハースによれば、「死についての現代的な作品」であり、「死にかけている男性の呼吸と一緒に生命維持装置の静かな音だけが聞こえる病室」の「音響空間」である―とのこと。
「核心」の後に来る音楽として、現代的視点を加味した優れた解釈による音楽だと思う。
第14曲「主、イエスよ」(Domine Jesu)ト短調。「Andante con moto」。
この曲のスピード感と前のめりな感じが好きだ。ポリフォニックに展開するのも格好いいし、後半の「quam olim Abrahæ~」からのフーガもスリリングだ。体感的には「アンダンテ」ではない。
第15曲「音響空間VI」(Klangraum VI)
「Ⅳ」と同じような印象を受ける音楽だ。ここではトロンボーンのソフトな響きが支配的。
オケは終始ピアニッシモに専念する―。合唱だけが早口でまくし立てる。
第16曲「賛美の生け贄」(Hostias)変ホ長調。「Andante-andante con moto」。
ついにフラグメントも最後の曲となった。もはや弦楽の僅かなパートしか聞かれない。
オルガンも微かに鳴ってる程度だ―。それでも音楽の穏やかさに癒される。
補筆版だと、後半で「Domine Jesu」と同様にフーガとなるが、ここではカットされる。
第17曲 「音響空間VII」(Klangraum VII)「Quam olim da capo」。
フーガの冒頭の言葉「quam olim」が繰り返される―。
「quam olim da capo」という指示は、モーツァルトがスコアの最後に記した言葉なのだそうだ。
ハースは遺言のようにこの言葉を合唱にリピートさせる。
何よりも僕が嬉しいのは、この最後の曲が純音楽的に響く点にある。ここで聞かれる様々な和声が全体を総括してゆくのだ―。
モーツァルトの最期を締めくくるのにふさわしい曲だと思う―。
蛇足として、ハースが「アニュス・デイ」を取り上げなかったのは当然の選択だと思うが、音楽としては魅力的な作品だと僕は感じている。ジュスマイヤーの痕跡を洗いざらい拭ったはずのモーンダー版ですら「アニュス・デイ」を省くことはできなかった―彼にしては「出来過ぎている」というのだ―。「モーツァルトの指示による」との結論故の採用であろうが、僕はこの「アニュス・デイ」こそ、「作曲家」ジュスマイヤーの最高傑作だと思う。
SWRによるライヴ映像。楽器編成や合唱の歌い口など、様々な「気づき」がある。
せめてここは「アニュス・デイ」を復活させよう―。レニーが妻のフェリチアの
没後10周年記念としてミュンヘン郊外アンマー湖畔のディーセンという街
の教会で行われたライヴであった。バイヤー版による演奏。
〆は「ラクモリーサ」のピアノ・ソロ版。胸をしめつける悲しみ―。