読書録:「素顔の西郷隆盛」磯田道史 | 隠居ジイサンのへろへろ日誌

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九州北部の街で、愛するカミさんとふたり、ひっそりと暮らしているジイさんの記録

歴史学者・磯田道史(国際日本文化研究センター教授)による西郷隆盛の研究成果。

265年続いた江戸幕府を倒して明治維新という革命を成し遂げた最大の功労者は西郷隆盛ということはだれも異論はないでしょう。その西郷隆盛の幼少期から西南戦争で戦死するまでの事績を、西郷の個人史と、彼を取り巻く関係者に焦点をあてて論じた歴史評論です。

いつもながら、あちらこちらの史料を引用しながらの名文です。「日本史オタク」全開です。磯田教授は、心にグッとくるような小説家さながらの名文家です。それを読むのも楽しみ。

本書の概要(ネットからお借りましたm(_ _)m)

今から150年前、この国のかたちを一変させた西郷隆盛。彼はいったい何者か。西郷の側近くにいた人々の証言等を改めて紐解き、後代の神格化と英雄視を離れて「大西郷」の素顔を活写。その人間像と維新史を浮き彫りにする。
 

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が大ベストセラーになり、いまでも読み継がれていますから、幕末維新のスターといえば坂本龍馬がダントツ人気ですが、明治維新に果たした役割の大きさからいえば「維新の三傑」といわれる西郷隆盛・木戸孝允(桂小五郎)・大久保利通の3人、特に、徳川幕府を倒す戦いでは、西郷隆盛がダントツで活躍しました。

この本では、西郷の人間的魅力、行動の原動力、日本の歴史を動かした戦略がさまざまなエピソードを交えながら語られています。

 

西郷隆盛の歴史上の役割は・・・江戸幕府を倒すまではみんなが「西郷頼み」だったのが、維新が成ってからは、ちょいと風向きが変わってきます。

西郷さん本人も、自分が「体制のデストロイヤー」であることをある程度自覚していたようで、維新後は体調が優れなかったこともあり、征韓論(明治6年の政変)に敗れてからは、「もう、おいどんの役目はおわりもうした。田舎に帰って百姓になるけん」といって故郷・鹿児島に帰ります。しかし、まだまだ社会は混乱が続き安定していません。倒幕・維新の英雄をだれもほっといてくれません。明治の新政府に不満をくすぶらせていた後輩たちに担ぎ出され、最後は朝敵(朝廷・天皇の敵)となり、国家反逆罪で戦死せざるを得なくなりました(西南戦争)。

「自分が生きている限り、こいつら(自分を慕ってくれる若者)は戦いをやめんやろな」と思ったのでしょうね。

明治10年5月 木戸孝允、西南戦争中に京都で病没。

明治10年9月 西郷隆盛、新政府軍に追い詰められた城山(鹿児島市)で戦死。

明治11年5月、西郷が亡くなった1年後、幼いころからの盟友で、のちに政敵となった大久保利通が旧士族に暗殺されて、幕末維新の時代は終わります。

 

3年ほど前に、平野國臣(福岡藩脱藩浪士)の取材で鹿児島に行きました。

平野國臣と西郷隆盛には、ちょっとした因縁があります。

西郷は、一橋慶喜を次期将軍にするため、藩主・島津斉彬の指示により、京都で朝廷工作をしていた時、清水寺の月照というお坊さんと知り合います。ところが、斉彬が突然死します。さらにその時期に勃発した「安政の大獄」(将軍継嗣問題で一橋派を排除する目的で、幕府の政策に盾突く藩主や学者を弾圧した事変)で、西郷隆盛も月照上人も平野國臣も指名手配になって、京都から鹿児島まで逃避行。ところが薩摩藩は月照上人を藩内で匿うことを拒否し、「月照を日向へ追放せよ」と命じます。錦江湾を東に向けて航行していく海上で西郷は、船の上から月照とともに身投げしてしまいます。それを助けたのが、同じ船に同乗していた平野國臣・・・。というような因縁があります。

 

そんなことを現場検証するため、鹿児島に行きました。

・・・書きかけの原稿は、ほっぽらかしていますが(苦笑)。

 

鹿児島では、西郷さんは「神」ですね。

西郷隆盛の銅像といえば、東京・上野公園の犬を連れた像が有名ですけど、鹿児島にももちろんあるんですよ。こちらは軍服を来た西郷さん。

 

西南戦争で、西郷さんが戦死した洞窟。

 

維新の3傑のうち2人は、薩摩藩(鹿児島)出身の西郷隆盛と大久保利通。しかし同じ鹿児島出身といっても、大久保利通は、実務能力的には超優秀でしたが、人間的な魅力としては西郷さんに遠く及ばなかったようで、大久保の銅像ができたのは没後100年(1979年)だったそう。

 

鹿児島では、西郷さんの人気は独り勝ち。

桜島サービスエリアには、鹿児島出身の偉人たち(西郷隆盛・大久保利通・島津斉彬・森有礼・小松帯刀・篤姫・西郷従道・桐野利秋・別府晋介・村田新八・東郷平八郎など)の顔出しパネルがあるのですが、西郷さんだけ4枚もあるんです。

 

開明派の藩主・島津斉彬と、お庭番(諜報部員)となった西郷隆盛。26歳。

 

安政の大獄で京都から鹿児島へ帰着、僧月照と入水したが蘇生。奄美大島に遠島になり、愛加那さんを島妻に。31歳。子の菊次郎は戊辰戦争で大けが。明治後期に2代目の京都市長になった。

 

陸軍元帥・参議。44歳。参議というのは、合議制の総理大臣のような役職。

 

「明治6年の政変(いわゆる「征韓論の政変」)に敗れ鹿児島に帰郷。土を耕したり狩りをしたり温泉に行ったりして過ごした。生涯、大の犬好きだった。

ということです。

 

(追記)

重箱のスミをつっつくようで恐縮ですが、本書中、1か所間違いを発見しました。

172ページ。

大政奉還後、抵抗勢力となった旧幕府方の武士団(彰義隊)が上野・寛永寺に立て籠った際、最新式の大砲(アームストロング砲)を撃ち込み、短時間で制圧しました。その大砲(アームストロング砲)を所有・操作したのは、肥後藩(熊本)ではなく肥前藩(佐賀)です。その後、会津城攻めでもその威力を発揮しています。

↓ 佐嘉藩(佐賀藩)による上野彰義隊への砲撃のようす(ネットからお借りしました)。

弘法も筆の誤り?