高杉晋作と白石正一郎に会いに下関へ | 隠居ジイサンのへろへろ日誌

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九州北部の街で、愛するカミさんとふたり、ひっそりと暮らしているジイさんの記録

引き続き、福岡の勤皇の志士・平野國臣の事績を調べています。
 
きのうは、幕末・維新の発火点・情報センターのひとつである下関(山口県下関市)に行ってきました。
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時間がなくて、行きたい場所の半分くらいしか回れませんでした。再訪して、もうすこし勉強してから詳しい記事をアップしたいと思います。
とりあえずはメモと写真だけ。
 
幕末の長州といえば、まずこの人。
高杉晋作。
功山寺の決起。
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曹洞宗 金山 功山寺。
長府毛利家の菩提寺。
広くて立派なお寺です。
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↓功山寺の境内(写真は拡大できます)
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↓1327(嘉歴2)年創建の仏殿。国宝です。
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↓功山寺には、「八月十八日の政変」で京を追われた三条実美卿ら五卿が2か月間潜んだ書院があります。
高杉は、この功山寺で決起する前に三条卿に「これよりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」とあいさつしています。それがこの場所。
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↓墓地には、京都伏見の寺田屋で坂本龍馬といっしょに伏見奉行所に襲撃された三吉慎蔵(長州藩士・維新後、宮内省御用掛など)の墓があります。
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↓下関歴史博物館。
幕末の下関の出来事を知りたいなら、まずここに来て勉強するのがてっとり早いと思います。晋作ファン必見です。
功山寺のすぐ下です。
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企画展「晋作と竜馬」が開催されていました。(明日、6月2日まで)
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企画展の方は撮影禁止でしたが、常設展示室は、許可を得て撮影させていただきました。
↓高杉晋作の師である吉田松陰の手紙。
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↓志士のパトロンであった豪商・白石正一郎邸で使われていた吸物膳。
西郷どんも龍馬くんも使ったのでしょうか。
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↓写真は、白石邸にあった浜門。
晋作くんも國臣くんも、この門をせわしく出入りしたのでしょうね。
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功山寺や下関歴史博物館があるのは、下関の長府というところです。
街並みも情緒がありました。きのうは駆け足でしたから、いつかまたゆっくり伺いたいと思います。
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さて、すこし移動してもう1か所。
JR下関駅から200メートルくらい北にある白石正一郎邸跡。
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高杉晋作と平野國臣は、ほとんど接点はありません。お互い名前くらいは知っていたかもしれませんし、顔を見たことがあったかもしれません。
ふたりの年譜を突き合わせると、文久3年7月末ごろには白石邸で会った可能性はあります。
晋作は、奇兵隊を創設(6月6日)した直後で、白石邸にいた可能性あり。
國臣は、福岡藩の桝木屋獄を出獄した後、朝廷から上洛するよう命じられ上京(7月25日福岡発~28日下関発)途中、白石邸に立ち寄った可能性あり。
國臣の年譜には「文久3年7月27日高杉晋作と会見」とありますが・・・。
ただし、ふたりの性格や立場からして、どちらとも相手が苦手なような気がします。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              
晋作と國臣の唯一の接点がこの白石邸。
荷受問屋・廻船業「小倉屋」を営んでいた白石正一郎の邸跡です。小倉屋は、米・反物・たばこ・酒・木材・お茶・塩・木綿・藍玉・・・今でいえば総合商社です。質屋と酒造業もやっていました。本州と九州の接点、北前船の寄港地である関門海峡というモノもヒトも文化も行き交う交通の要衝にあり、薩摩と長州という幕末の雄藩の重要人物がこの地を通ります。まさしく、討幕派の情報センターです。
 
↓現在は、中国電力下関営業所のおおきなビルが建っています。
道路のこちら側が海だったとのこと。
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ビルがある場所から50メートルくらい南に歩くと港に出ます。
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それと、当時、白石邸の海側にあった浜門(上のほうの博物館の写真を参照)が長府(下関市長府松小田本町)に移築されていて、ネットでみると、もう崩壊寸前なんです。実は、今回、この門を見に行きたかったのも下関に行った理由のひとつです。この門を多くの志士たちが出入りしていたんですね。
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移築された場所は、かつては白石家の別邸だったとのこと。門はもうぼろぼろです。保存のためのお金を出してくれる篤志家はいないのかなぁ。
 
白石正一郎については、とても興味深い人物ですから、もうすこし勉強したいと思います。
 
備忘録として、キーワードだけ書いておきましょう。
●白石正一郎の3人の恋人=西郷隆盛、平野國臣、高杉晋作。
●白石正一郎が支援したり関わったりした者は約400人。
彼の日記から抜き出してみると・・・、
・薩摩:西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀・村田新八・奈良原喜八郎・道島五郎兵衛・有馬新七・田中謙助・伊牟田尚平・森山新蔵・高崎猪太郎・田中新兵衛・町田助十郎・藤井良節・工藤左門・洋中藻平
・長州:高杉晋作・桂小五郎・久坂玄瑞・伊藤博文・山形有朋・井上馨・土屋矢之助・松嶋剛三・時山直八・野村和作・小田村文助・有川常槌・吉田栄太郎・中村九郎
・徳山:江村彦之進
・筑前:平野國臣・野村望東尼・楠屋宗五郎・藤四郎・吉永源八郎・中村円太・中村恒次郎・月形洗蔵
・筑前秋月:海賀宮門
・久留米:真木保臣・半田門吉
・豊後:小河弥右衛門・広瀬友之丞
・肥後:河上彦斎
・土佐:坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎・樋口真吉・谷干城・平井収二郎
・そのほかに、梅田雲浜・清川八郎・僧月照・中山忠光・・・。
●三条実美ら五卿落ちの公卿も白石邸に滞在した。八月十八日の変で京を追われた七卿のうち、澤宣嘉は平野國臣とともに生野で挙兵・逃亡。錦小路頼徳は、赤間関の砲台視察中に倒れて白石邸で病没。
●平野國臣は下関を通るたびに白石邸に16回も厄介。脱藩浪士である國臣はたびたび資金援助も受けていた。
●白石邸は高杉晋作の奇兵隊結成・創設の地。
●白石家が奇兵隊を金銭的にバックアップ。
●正一郎も弟・廉作も奇兵隊に入隊、士分となった。会計方を務める。
●弟・廉作は、國臣とともに生野義挙に参加。敗れて自刃。
●高杉晋作の最期を看取り、葬儀も執り行った。
●西郷隆盛と意気投合。薩摩藩の御用を請ける。
●流罪先から逃亡した野村望東尼を匿った。
●薩摩藩による「寺田屋事件」の霊を弔うため、京都伏見の大黒寺に参拝した。
 
●討幕運動に私財をなげうったため維新直前に家業は破産、お世話をした明治政府の高官たちにはなにも見返りを求めなかった。
●明治維新後、正一郎は赤間神宮の宮司となり、1880(明治13)年、69歳で死去。
 
白石正一郎は膨大な日記を残しており、自ら援助した幕末維新の志士たちの動きを刻々と記録しています。
昨年亡くなった下関在住の直木賞作家・古川薫「維新の商人/語りだす白石正一郎日記」を読みたいと思っています。
 
(参考資料)
・「我胸の燃ゆる思ひにくらぶれば烟はうすし櫻島山」宗教法人平野神社(葦書房/平成6年4月10日)
・「高杉晋作年表」
・白石正一郎日記現代語訳(白石正一郎の末裔の方が運用しています)