平野國臣の息吹を感じる 福岡市博物館/企画展「明治を想う」 | 隠居ジイサンのへろへろ日誌

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引き続き、福岡の勤皇の志士・平野國臣の事績を調べています。
今回もマニアックなお話です。

平成30年度は、明治元年(1868年)から150年の節目の年。全国各地で幕末・維新・明治についてのいろいろなイベントや展示会が開かれました。
すこし前、福岡市博物館(福岡市早良区)でも「明治を想う」と題して企画展がありました(1月8日~3月3日)。

↓ 福岡市博物館→国宝「金印」が展示されています。
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↓ 企画展「明治を想う」のコーナー
注:館内・展示物の写真については、受付であらかじめ了解を得て、撮影禁止のものは除外して撮影しています。
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▶志士の履歴と顕彰
明治を迎える前に亡くなった勤皇の志士たちを顕彰するため、明治政府は、各県に命じて彼らの履歴を調査・報告させました。その調査の中で作成された資料が展示されていました。

↓ 「筑前維新勤王諸家事績」(衣非直木ほか/明治7~8年)
明治政府による勤王の志士の調査報告書。勤王派の家老だった加藤司書ほか60余名の履歴書がまとめられた文書です。
平野國臣(平野二郎)は、右ページ下段の小さい字の筆頭にあります。たぶん、大きい字は藩内にとどまった藩士、小さい字は脱藩者または武士階級以外の者ではないでしょうか。
挙げられている國臣も中村円太も脱藩者ですし、以前紹介した女流歌人・野村望東は脱獄者です。福岡・秋月藩を脱藩し討幕活動に身を投じた戸原卯橘(トハラウキツ。生野の変で自刃)、海賀宮門(カイガミヤト。寺田屋事件により薩摩藩へ移送中斬殺)の名前もあります。
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↓「福岡殉難志士列伝」(藤井甚太郎/大正~昭和時代) 
黒田家の歴史書を編纂した歴史家・藤井甚太郎がまとめた福岡出身の志士の履歴書集です。
筆頭に平野國臣が出ています。左のページには國臣の履歴が書かれています。國臣に関する多くの資料は、ここに書かれた履歴・年譜が使われているようですね。
右側の赤文字には、國臣とともに「生野の変」に参加した仙田淡三郎の名前もあります。
仙田談三郎は、福岡藩を脱藩後に三田尻(山口県防府市)へ行き、五卿落ちの公卿を警備中に國臣に誘われ生野の変に参加、破陣後は三田尻に逃れ、同地で病死しています。享年27歳。
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↓「筑前志士傳写」(長野誠 編/明治20年代の写本)
明治4年、旧福岡藩士の長野誠が、明治政府の命令で編集した福岡藩の勤皇志士の伝記集。この本の筆頭も平野國臣です。
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こういった文書を参考に、福岡藩の勤王志士のうち、明治政府により最初に顕彰(明治24年)されたのは、
・正四位 平野國臣
・従四位 中村円太(筑前勤王党/五卿落ち公卿の太宰府動座に尽力)
・正五位 加藤司書(勤王派の家老/長州征討斡旋、薩長同盟に尽力)
・正五位 野村望東尼(勤王歌人/勤王志士の後見人、長州藩・高杉晋作を匿う)
となっており、その後、順次顕彰者が増えていったということです。

▶追憶
幕末に活躍した志士が残した和歌などが紹介されていました。

↓「殉難後草(ジュンナンコウソウ)」(青雲閣兼文 稿/1868年)
幕末に非業の死を遂げた志士たちの詩歌を紹介したもの。
平野國臣(平野次郎大中臣國臣)は、幕末の志士の中でも指折りの歌人でした。
流れるような文字・・・日本語なのに読めませんねぇ(苦笑)
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▶面影
↓ 野村望東尼の像(作者不明/高さ87.2cm/昭和11年)
1936(昭和11)年に開催された「博多港築港記念大博覧会」で展示された像だそうです。和紙と布でできています。
作者不明となっていますが、博多では博多山笠や博多人形の人形師が多くいますから、そんな職人さんが作ったのでしょう。
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↑これはなかなかの美人ですねぇ。
↓望東尼が隠棲した庵「平尾山荘」(福岡市中央区)にある胸像はちょっと・・・ですが・・・。
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若いころの望東尼は博多弁で「じょうもんのしゃれもん(美人でおしゃれな女の人)」といわれていたそうです。
野村望東尼については、以前こちらに記事をアップしています。
「平尾山荘の梅花/野村望東尼と藤四郎」

望東尼は幕末を生きた優れた女流歌人であり、勤王の志士を援けた後援者でもあります。知りたがり屋で知識欲と好奇心が旺盛、藩内外の人との広範な交流がありました。

↓「金玉文藻帖(キンギョクブンソウチョウ)」(明治時代)
幕末に活躍した西郷隆盛・高杉晋作・三条実美、藩内の平野國臣・加藤司書らの書状や和歌・漢詩などを収めたスクラップブックのような綴りもの。大半が望東尼にあてたものだそうです。
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・左上 中村恒次郎(福岡藩士/中村円太の弟/禁門の変で戦死)
・左下 月形洗蔵(福岡藩士/薩長同盟を起草/
「月様、雨が・・・」「春雨じゃ濡れて参ろう・・・」の名セリフで知られた新国劇「月形半平太」のモデル。月形半平太というのは、この月形洗蔵と武市半平太(土佐勤王党首領)を足したもの)
・中央 西郷隆盛(薩摩藩士)。上部に「奉呈 比丘尼」とあります。
・右 高杉晋作(長州藩士)。左上に「望東」とあります。

↓「郷土史館絵はがき」(福岡市教育委員会/昭和11年)
望東尼の像と同じ博覧会の郷土史館に設置された幕末の展示コーナーを紹介する絵はがき。
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・左下 平尾山荘で、志士らと談合をする野村望東尼
・中央下 福岡藩の桝木屋獄に投獄中の平野國臣

▶國臣の執念「平野國臣紙撚文書」紙縒り(こより)文字
脱藩の罪で福岡藩の桝木屋獄(福岡市中央区唐人町)に投獄されていた時に書いた・・・落し紙(トイレットペーパー)を細く撚(よ)って飯粒で張り付けた・・・紙縒り(コヨリ)文字の書面。
獄中、國臣のような政治犯には筆墨が許されませんでしたから、國臣は獄内にあった落とし紙を細く撚ってコヨリにし、弁当の飯粒を糊にして紙に張り付けて思いを書き留めていました。
この紙縒り文字で「神武必勝論」という討幕論や、自伝「盡志録」、さらに多くの和歌を残しています。ほぼ1年間の投獄生活で書いた(紙縒り文字を張り付けた)文字は、2万字ともいわれています。すごい根気と執念ですね。
獄舎には國臣を支援する小藤平蔵という獄吏がいて、國臣は紙縒り文字で和歌を詠み、野村望東尼と歌のやり取りもしています。

紙縒り文字の現物がこちら。
↓「平野國臣紙撚文書」(福岡市博物館蔵)
こんな歌が書かれています。 
上は缺(か)け下は水漏る徳利の 枯れし葵に秋風の吹く
「枯れし葵」とは徳川幕府のこと。使い物にならないトックリに徳川幕府(葵の御紋)をひっかけて、幕藩体制の終焉を揶揄した歌です。
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↓上を拡大したもの。右側の字は「徳利(トックリ)」と読めますね。
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↓こちらは富士山を形どった絵です。(福岡市博物館蔵)
左半分に富士山の稜線が描かれていますが、ちょっとわかりにくいかもしれません。
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↓「平野國臣紙撚文書」の現物(鳥飼八幡宮蔵)
こちらは、ずいぶん前、國臣を祀る平野神社(福岡市中央区)を管理している鳥飼八幡宮で見せていただいた紙縒り文字の書面です。すぐ目の前で見せていただきました。
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見せていただいた宮司さんの話によると、数年前、骨董市場に出回っていたものを100万円で買い戻したということでした。
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宮司さんいわく「なんて書いてあるかは、わたしもわかりません(笑)」。