冬の義民祭 と 三木義民の歌 | 尚吾の「人生七転び八起き」

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三木義民の歌

豊太閤の制札は わが町三木を栄えゆく
基となりてあり経しを 延宝検地の厳しきに

あーあー募る苦しみ あーあー喘ぐその声

救う手段(てだて)の終(つづま)りは 命尊き直訴なる
人静まりて息をのむ その時たちし二人あり

あーあー岡村源兵衛  あーあー大西与三右衛門

春三月にいでたちて 命の願い訴たうる
月重なりて年の暮 誠は遂に通じたり

あーあー岡村源兵衛  あーあー大西与三右衛門




小学校の時に、何度もこの話を聞かされて歌を歌いました。
最近まで、覚えていたのは、死を覚悟で直訴に行った二人の名前くらいですが、
あらためて歴史を読み返し、歌詞を見ると何か泣けてきますね。





毎年12月8日に行われている「冬の義民祭」

平山町の「本長寺」に会場設営のお手伝いに行って来ました。
確か6年ぶりかな?










三木は別所氏時代、秀吉時代、徳川時代へと永代に渡り、免租地でしたが、
延宝5年(1677年)幕府は「延宝検地」という令を出し、年貢を取る通知を
交付しました。

町民は困って話合い、幕府に取り消しの直訴に行く三木の代表として名乗り出たのが、

平田村の年寄:岡村源兵衛成次と、
平山の年寄:貝屋大西与三右衛門

の二人で、死罪を覚悟で幕府にお願いをして取り消してもらいました。
その後二人は義民と呼ばれるようになりました。義民の一人、大西与三右衛門の墓所は
本長寺(三木市府内町6-43) にあり、毎年12月8日には義民冬祭りが本長寺で
行われています。





行事内容:
 (1)本堂読経     午後0時30分
 (2)墓前法要     午後1時
 (3)詩吟詠     
 (4)義民のうた合唱  三木小学校児童 
 (5)奉納柔道大会   午後2時






                
私も小学校6年生の時に、ここで歌いました。
当時は、ソプラノ笛の演奏もしていたように思います。

懐かしい!









境内に畳をひいて柔道大会の準備




子ども達は、暖かいお蕎麦を振る舞われます。
















本長寺 本堂





境内にある

・義民顕彰碑
・大西与三右衛門の墓









いただいた上庸饅頭は

本長寺と大西与三右衛門(九枚笹)の家紋入り












皮のべたっとした

昔懐かしい上庸饅頭、美味しかったです。(^_^)v





追伸:

夏の義民祭

7月18日に、もん町の本要寺では「夏の義民祭」が行われます。
(法要と古文書を虫干し)

天正8年、三木城攻めを終わった羽柴秀吉は、寺院の中でただひとつ焼けなかった本要寺に本陣を移して、自刃した別所長治の首実検をしました。

このあと、戦火をのがれて四散した町民百姓を呼び戻すため地子免許の制札を立てました。
これは、長治の善政をそのまま真似たものですが、制札は後世になってもおおいに役立ちました。

たびたびの領主替えになっても、先の領主にもらった書付け(地子免許状)を差し出して税や様々な労役を免れてきましたが、徳川の世「延宝の検地令」はその願望を打ち砕きました。
 
そこで、本要寺を会合場所として町民の会合を開いた結果、平田町の大庄屋「岡村源兵衛」と、平山町年寄「大西与三右衛門」が江戸城へ直訴に出発しました。当時の直訴は死罪でした。
 
延宝5年3月に三木を出立した二人は、老中にまで願い出ましたが結果は思わしくない秋を迎えました。
この時、本要寺に残されていた秀吉の制札がみつかり、早速江戸へ届け出たため、有力な証拠となり、暮れもおしつまった12月24日になって幕府から赦免を認められました。

しかも誠意が認められた二人は死罪を免れ、再び三木の地を踏むことができました。
二人の没後、本要寺に二人を義民として顕彰する碑を建ててその功をたたえました。

そうして制札や記録がいかに大切かを知った人々はその側に宝蔵を建て多くの文書を残しました。