浮気性
なんです。
昔から。
ついつい、
「ジュンブンガク」
を
読みながら
「タイシュウブンガク」
を読んだり。
「タイシュウブンガク」
と、
「タイシュウブンガク」
とを、
同時に読むなんて、
なんともいやらしいことに興じていた時期もあります。
いくつかのジャンルを、
常に忍ばせておくわけです。
かばんの中に。
そんなこんなですから、
皮やらなんやらの、
立派なブックカバーが欲しくなってくるのだけれど。
まぁ、それはよろしい。
さっきはこっち一文を読んで、
あっちあとがきに目を通さないまま、
こんどはこちらの序章に思いを馳せる、なんてこと、
よくやっています。
ケンキュウという漢字をノートに書き続けろ
「早生まれ」は学歴でも不利? 一橋大院助教授が調査 (朝日新聞) - goo ニュース
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20060718/K2006071706120.html
1~3月誕生の「早生まれ」は学歴でもわずかに不利、
という統計分析を一橋大大学院の川口大司(だいじ)・助教授(労働経済学)がまとめた。
なんとも下らない事に、
時間と費用を使っているのやら。
同教授は、
そんなにお暇でらしたのでしょうかね。
つまり、
早生まれは発達時期の点で不利であるのから、
大学受験の結果においても配慮がなされるべきである、とでも言うのでしょうか。
確かに学歴は生涯年収にも響いてくるものですね。
労働経済学の教授としては、
そこに問題を見出されたわけですか。
この話は「学歴」に焦点をあてているわけですから、
それだけということを前提にしまして、
考えてみましょうか。
では学期の真ん中を取りまして。
四月から三月までを一年度、と。
ですから、ちょうど九月と十月との間を境にすれば、
前後半にわけられる、というわけ。
このあたりに生まれた子は、
(さらに正確を期するなら九月十五日を基準として)
「標準的生年月日」を持つ子供と規定する、と。
そしてそれより先にうまれた子供には負の、
後に生まれた子供には正の修正値を付してゆけば、
とても公平なことになるというわけですね、
川口大司先生。
労働経済学って、
そんなにすばらしい学問だったとは。
愚にもつかん。
サンタクロースの死んだ日
両親と、そして弟と街を歩いた日。
いや、記憶にある風景からすると、
それはたしか旅行。
福岡、天神。
それも、「地下街」を歩いていたのだった。
きっとそうだ。
そんな風に家族で歩いていたのだから、
当時の俺はたいだい、小学校5年生くらいだ。
もの珍しい風景を横目に見ながら、
特に目的地もなく、地下街を歩いていた。
天神の地下街を見せて歩く。
それが両親の目的だったのだろう。
なにか気に入ったものがあれば、
購入したっていいだろう、といった心積りは持ちつつ。
なんたって、旅行なのだから。
そういった両親の意図は、
幼い頭でも十分に理解できた。
だから、
体よくはしゃぎつつ、
行き交う人にぶつからないように、
弟が迷子にならないように、
どこそこに目を奪われ過ぎない様に。
そうして、
歩き続けること。
を、
心がけていたのは確かだ。
とある店の横を過ぎたところで、
父親がひとこと,、漏らした。
「最近の子供たちは、
おもちゃ屋の横も素通りするんだな」
当時の父親にしても、
今現在の父親に問うても、
いずれもその発言は
母親に向けたものだった、と言うのだろう。
俺は必死で反論した。
今回は旅行中なのだから、
おもちゃ屋などに気をとられてはいけないと判断したのだ。
本当ならば、店の中に駆け入りたい気持ち、はあるのだ。
というような旨。
はっきり憶えている。
当時の俺は、
しっかり子供を演じることが出来きなかった、と、
悔やんでいた。
父親が期待しているもの。
「無邪気さ」と、
「聞き分けのよさ」。
このバランスを誤った、と。
七夕には他愛もない願い事を、
綴った。
初詣ではおみくじを、
ねだった。
「サンタクロース」を信じている、
ふりをしていた。
演じている、というのではない。
家族も、人生も、
舞台ではないし、
ゲームではない、と思う。
もっとしっかりとした、
リアルだ。
意味もある、
力も、温度もある。
俺は「子供」であろうとし、
父親は「父親」としてあった。
まやかしではない。
俺が俺であるということは、
そういうことだったか。
そんなことを、
はじめて自覚したのは、
そのときだったのかもしれない。
ドーバー海峡、いや、そもそも海の道か。
ものすごく、日本文学、
いや、日本語、日本文化に造詣の深い、
フランス人に会った。
彼はサッカーが好きではない。
だから、ワールドカップの話はご法度だ。
決勝のときも、別段盛り上がりはしなかったし、
ジダンの頭突きの処分をめぐってもめることもない。
彼といのは、まぁ先生にあたる人物なのだが、
夏休みの課題図書として、
- 川端文学研究会
- 論集 川端康成―掌の小説
これを指定した。
「三島と川端の書簡は候文だから、
ちょっぴり難しいですね」
と言う。
淡々としている。
先生、候文ってなんですか?
俺をがっかりさせてくれるな。
ラブレーも、モンテーニュも呼んでいない俺は、
(『赤と黒』さえ未読ではないか)
どうも情けないやら申し訳ないやら、
妙な心情になる、毎回。
太宰の書簡を見せたら、
ああそれは、おもしろいですよね。
そんな人物が、
さらりと英語も話してのけた。
いや、ヨーロッパの知識人なのだから、
そのくらいなんてことないのだろうし、
それ以上に漢字をこれまた平然と読み書きできるほうが、
遥かにすごいさ。
英仏の戦いの歴史とかじゃないさ、
単純にヨーロッパ系言語のバイリンガルを聞いてみな。
ぞくっと、するぜ。
輪廻とハンペン
コンビニで笑っている男がいた。
「コンビニで笑っている」「男」の話が始まるのである。
この二つが同時に生じていたことに、
俺が異常を感じました、
というのが本日の論旨。
男が笑っていたのである。
これが、「子供が」だとかなれば
「コンビニ」だろうと「遊園地」だろうと「戦場」だろうと、
それは異常というものを伝えるのが主筋ではなくなってしまう。
男なのだ。
いい年した、その、25歳ほどの男。
一番厳しい眼で評価を受ける人材だったのだ。
そいつはコンビニの雑誌コーナーで、
「週刊少年マガジン」を読んで、笑ってしまった。
笑って「しまった」のだ。
そこには不覚の雰囲気が流れていた。
俺だって、雑誌を読んで、
クスリとやってしまうことはある。
しかし、それを「週刊少年マガジン」でやってしまったのが男の不運。
「週刊ヤングジャンプ」なら、
まだ漫☆画太郎 のせいにできる。
そこまで考えて、
また新案が浮かんだ。
ならば、その男が仮に、
ウパニシャッド哲学の本を読んでいたらどうだったのだろう。
暑い夕方だ。
昨日も、そして今日も。
駅から7分の場所に居を構えて、もう、一年以上たつ。
帰路には歩いて3分きざみくらいの間にコンビニが隔立している。
そのコンビニごとをチェックポイントに見立てて時間を計ったところで、
確実に7分は超えるだろうってことは、計らなくてもわかる。
計るはずがない、無駄な落胆などしたくないのだから。
一年前、不動産屋と今の住居まで歩いたときも、
大して時間など計らず、
「どうです、近いでしょう」
「そうですね」
と、そんなことなどあまり考えないようにして話をすすめていった。
徒歩7分、などの先の時間よりも、
そのときの数分が、惜しかったからだろう。
涼みに入った3件目のコンビニには、
まだおでんが売ってあった。
こういう、よく意味のわからない組み合わせを演出するのならば、
もっと手の込んだイヤガラセでも添え物にするべきだ。
それが「ナンセンスのハイセンス」ってやつだろう、と
そんなことを考えていたが、そんなところで、
ハンペンが食べたくなってくるわけがない。
あたりまえだ。
ここにいてもなにか、気持ちが報われない気がしてきたので、
さっさと家路につくことにする。
ウィンドー越しに、
ウパニシャッド哲学の本を立ち読みしながら笑っている男が見えた。
や、これもダメだ。