とりとめのない話。
最近、アメリカにも原爆症で苦しんだ人がいたことを知った。
移民とかじゃない。
原爆投下の結果を記録し、調べるために、終戦直後にヒロシマやナガサキに派遣されたアメリカ兵だ。
彼らは国からも軍からも何一つ知らされずに、爆心地に派遣された。
結果、何年も経った後、原爆症に苦しんで亡くなった。
彼らは原爆投下をどう思っていたのだろう?
ワタクシの母は、満州で子供時代を過ごした。
彼女からは、裕福で幸せだった満州での生活の話は聞いたことがある。
また、引き揚げの時にロシア兵に財産を奪われたという話も。
学のない農奴出身が多かったロシア兵は、巻き上げ式の時計はネジを巻かないと動かないことを知らず、止まった時計を壊れたと言っては新しいのを強奪していったのだそう。そんな止まった(壊れた?)時計をいくつもいくつも腕に巻いていたらしい。
また、少し好奇心の強い者は色々と質問してきたとも。日本にも太陽があるのか、と聞かれた母が、ある、と答えたら、日本にも太陽があるなら、太陽は二つあるんだな、と言われてびつくりしたという話も聞いた。
けれど、実際の引き揚げの記憶は話してくれたことはない。
当時、母は小学生だったから、忘れたのか。あるいは思い出したくないのか…
父は、今の北朝鮮に家族で入植していたそうだ。
戦争の激化で、祖父は徴兵され、そのままシベリア抑留された。
もともとそう裕福でもなかった父は、北朝鮮ではコーリャンばかり、日本に引き揚げ後は芋ばかりの食事で、それが辛かった、と。
なけなしの財産は、持ち出したものは途中で奪われたり無くしたり。持ち出せずに家の庭に埋めたものは、きっと後でその家を自分の物にした人に取られたんだろう、と。
そして、祖父はシベリアから帰ってからはろくに働かなくなったらしい。だから、祖母はとても苦労したのだとか。
体験した何かが、祖父を変えたのだろうか。
抑留中何があったか、ほとんど語らなかった祖父に、聞いておけばよかったと、今になっておもう。
しかしながら、聞けば祖父の心を傷付けていたかもと思えば、聞かなくてよかったのかも、とも…
ただ、抑留中、木切れか何かで人形や玩具を作ったりした、仲間に喜ばれた、ということを断片的に聞いたことがある。
断片ではあるが、人というものの本質を聞かされたような気がするのは、あながち間違いではないだろう。
無くした後で気付く大事なことが、世の中には多すぎる。