それってどうなん? | シャオ2のブログ

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最近は着物と舞台に夢中

私、職業は塾のセンセーです。国語を担当してます。


今、受け持ってる中学生徒の国語の教科書は光村です。


3年の古典の単元は、日本三大和歌集とおくのほそ道と論語で構成されています。


古今和歌集から採られた和歌の中に、小野小町の





おもひつつ、寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを





があります。この歌は、優れた恋歌であり、豊かな叙情性を持ちながら、特に難しい修辞や技巧があるわけでなく、初心者の中学生にも理解しやすい和歌です。ですから、教科書に採択されるたのは頷けます。



しかしながら、私は物申したいプンプン


この歌の意味は「恋しく想いながら寝たからだろうか、あの人が夢の中で会いにきてくた。もし、あれが夢と知っていたなら目覚めなかったのに」です。


ここからの解釈が、私には納得いかないビックリマーク


片思いの切なさを歌った歌、と教科書では教えていますが、違うだろ!?と……


小町が片思いしている男性のことを想いながら寝たらその男性を夢に見た。目覚めて夢と知ってがっかりした。ここまではまあ、OK


しかしね、夢に出てきたのは、小町が男性を思ったからだ、という解釈になるのが、私的には、NGなのです。


なぜなら、当時の常識と照らし合わせれば、想うあまり夢に姿を現すのは、想う「当人」が、「相手」の夢に、のはずなのですよ。


源氏物語にも、六条御息所が嫉妬のあまり生霊になって夕顔や葵の上をとりころす、というエピソードが出てきますよね。


怨霊になったのは行きすぎとしても、これは想いが深いと魂の一部が生霊となって相手の下に訪れる、というのが当時の常識だったからこそ出てきたエピソードだと、大学時代に学びました。


であればですよ。


上記の歌で小町の想い人が夢に出てきたということは、相手もまた小町を想ってくれている証拠なわけです。つまり、小町と想い人とは両想いなのです。けれど逢えない。どういう事情があるかは分かりませんが、想いあっているのに現実では逢えず、夢でしか逢えない。その夢は距離を隔てた二人が同じように魂の底から呼び合っている時間にしか見ることができない。次に眠ったとして、タイミングが悪ければ夢の中ですら逢えない。だから切ない、という歌だと、私は解釈します。


だってね、片思いの相手を想いながら寝たら夢に出てくるなら、それは自分の心次第でしょ。


自分次第なら、必死に想いながらまた眠ればいい。自分の気持ちさえ深いならまた彼は出てきてくれるでしょう。「覚めざらましを」とか言ってないで、眠ればいいんです。


けど、 そうではなくて、夢で逢いに来てくれるかどうかは相手の気持ち次第。 だから、「覚めざらましを」だと想うし、そちらの方がより切ない。


だって、相手次第なら次に眠った時に夢に出てきてくれるかどうかは分からないわけです。しかも、夢に逢いに来てくれないのが、タイミングが悪いのか、相手が心変わりしたからか、それも分からない。


今のようにメールだ電話だといった即時の連絡手段がない時代、手紙も同じ都の内ならともかく、ちょっと離れればいつ届くかいつ返事が返ってくるか分からない、そんな時代ですから、分からない、ということ自体がとんでもなく切なく辛いことだと思います。


ま、そんなわけで、この歌を片思いの切なさを歌った歌だと結論付ける教科書の解釈には、大いに反対!!


両想いなのに逢えない切なさと、いつ恋が終わるか分からない不安を同時に抱く悲痛な恋歌だと、私はいいたい!!