国民の映画 | シャオ2のブログ

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最近は着物と舞台に夢中



大阪千秋楽、観てきました。


ネタバレもあるので、ご注意を



































なんというか、怖い話でした。



最初はそれなりに笑いどころもあって、ナチスがテーマにしてはそんな深刻なお話じゃないのかと思ってましたが…



裏切られましたね(;^_^A








一番怖かったのは、さっきまでユダヤ人である登場人物の一人・フリッツの処遇についてもめていたはずなのに、当人がいる前で、ゲッペルスとヒムラー、ゲーリングが「一時間で二千人を処理できる」「素晴らしい」と平然と話し合う場面。



中の一人が「そんな一気に大量処理するより、労働させた方が国家のためだ」と抗議したりもするけど、それは『人間を殺すこと』に対する感覚ではなくて、『家畜や道具をいかに有効に使うか』という観点からのものでしかなくて…



さっきまで庭の木についた虫を「害虫と言ってもそれは人間の勝手な言い分で、虫にも命があるんだ」などと言っていた人物が、同じ口で「処理してしまった方が有用だ」などと言う。



そして、かつて若い頃、ユダヤ人と恋愛したこともあるはずのマグダの最後の台詞。


それって、同等の人間としてみていないから言える台詞だよね、と思いました。





最後に、ゲッペルスは映画を見ようとして、自分ではどうしようも出来ず、明日、収容所に行くための準備を終えたフリッツに


「私では、どうしていいかわからない」


と言うシーン。


フリッツは黙って映写機を操作して、二人で映画を見るわけですが、そのシーンはある意味象徴的だと思いました。


優秀だと自認し、劣等種族と決め付けたユダヤ人を抹殺することにしたナチス高官であるゲッペルス。


けれど、自力では自分の愛する映画を見ることすら出来ず、ユダヤ人であるフリッツに頼るしかない。


しかも映画の知識はフリッツの方が持っていて、ゲッペルスにとって教師のように様々なことを教える立場にある。


その奇妙な逆転現象。その皮肉。その歪つさ。


そして、それにまるで気付いていないゲッペルスの滑稽さ。


ナチスというものの持つ歪みが象徴されているシーンだなと思いました。





そういうわけで…


怖い話だったなぁ、と。


色々考えさせられました。