タイトルの本は、P・K・ディックの短編集。
ディックといえば、映画「ブレードランナー」や「トータル・リコール」の原作者なわけですが、この人の書くSFはひたすら暗くて重い。
ちょっと(かなり?)とっつきにくい作家ではありますが、はまる人はとことんはまる、それがディック。
爽快感や冒険心、未来への希望なんてものは、薬にしたくてもないのが普通。
この本もご多分に漏れず。
表題作は、大の大人が、ジェニーちゃんもどきのお人形遊びにうつつを抜かしてるお話です。
それぞれの夫婦が、自分の持つ、パーキー・パットと呼ばれる人形に洗練された高級ファッションを着せ、豪華なスポーツカーやお屋敷のジオラマを作り、BFまであてがって、その出来を競い合う。
髪の色はブルネットがいい、いやブロンドだ、瞳の色はブルーだ、グリーンだ、ブラウンだ、とそれこそどうでもいいことを、いい年したオッサン共が、真剣に語り合う姿は、かなりサムい。
で、ご自慢の人形を使って、人生ゲームみたいなゲームばかりしているわけですね。
で、なんで大人達がそんなことに血道をあげているかというと、第何次だかの世界大戦後の荒廃した世界だからなんですね。
彼らが住んでいるのは地下のシェルター。
地上は戦争の爪あとがまだ残っていて、遺伝子的に変わってしまった野生動物なんかもいたりして危険な状態。
たまにどこから自動的に飛んでくる飛行機が、食料その他の生活必需品を落としていくので、それを取りに行くときにしか、外には出ないで暮らしている、という設定。
で、大人たちは、「戦前の豊かな社会」へのノスタルジーから脱却できず、人形を使って過去を再現し、心を慰めているわけですな。
にしても、閉鎖された空間で絶望感と無力感に苛まれている大人たちの病みっぷりは、薄ら寒いどころじゃないわけで…
で、そういう大人を尻目に、子供たちは禁止されている外の世界に出て、野生動物狩りをしたりして、たくましく遊びまわっているわけです。
「戦前の豊かな社会」なんぞ絵に描いた餅、大人の聞かせる御伽噺としか思っていない子供たちのたくましさというのは、なかなかに素晴らしい。
彼らは彼らで、きっと荒廃した世界に順応して生きていくんだろうな、と思わせます。
で、最後、大人たちは人形遊びに夢中になったあげく、他のシェルターでは違う名前の人形がもてはやされていると通信で知り、「俺たちのパーキー・パットの素晴らしさを分からせてやる」とばかりにジオラマ一式を持って、シェルターを出ます。
そこで出会ったのは、コニー・コンパニオン人形。パットがティーンエイジャーなのに対して、コニーは大人。
結婚して夫がおり、なんと職業を持っている!しかもゲームが進んでコニーが妊娠した場合用に、胎児の人形まで用意されているという…
たかが人形遊びになんでそこまで、と思わざるを得ないわけですが、パット側は大きなショックを受け、それによって、価値観が変容してしまうわけです。
その結果、それを受け入れてしまった人々は元のコミュニティから追い出されるわけです。
ディックが描くのはここまで。
この話は現代社会のカリカチュアそのもの。
変わっていく世界。
過去の価値観にしがみ付き、変わることを肯えない大人たち。
変わることを受け入れた少数派はコミュニテイからは浮き上がり、はじき出されるしかない。
一方の子供たちは柔軟に変化を受け入れているというのに、大人たちの硬直した思考は変化を受け入れられず、受け入れるには外部からの刺激がなくては無理だという状況。
戦争後の世界だの、大人の人形遊びだの、そういった雑事を除いてみれば、そこにあるのは混沌とした世界の中、旧態を守ろうとする人々と、そこから脱却した人々との軋轢という、非常にありふれたテーマが浮かび上がってきます。
ディックは、こういう日常に潜むありふれた事象に、非現実的な肉付けをつけて話を組み上げることに長けた作家だと思います。
しかもそれがありがちな大団円とかハッピーエンドに結びつかないところが、非常に彼らしい。
大体において、SF作品というものは、基本的に大団円で終わらせがち。
まあ、SFというジャンル自体が未来のことを描いている以上、未来は真っ暗と思うより、明るい未来が待っていると思いたいのが人情なので、当たり前といえば当たり前か。
そこに基本的に前向きというかアグレッシブというか、そういうアメリカという国の国民性を合わせれば、ハッピーエンドで当たり前。
そういう、SFというジャンルそのものがアメリカから生まれたこと、しかもその根本には「フロンティア精神」が横たわっていること、ジャンルの特性、等等を考えれば、ディックは稀有な作家だとつくづく思うわけです。