今回は大阪の旅のブログをおやすみして映画の感想です(旅の続きは次回にまた)。

公開第2週目の木曜日に新宿tohoにて鑑賞しました。ネタバレ全開なのでご注意ください。

まあ公開から日も経っているのでいいでしょう。


『ゴジラ×コング

     新たなる帝国』

  監督:アダム・ウィンガード

  出演:カイリー・ホットル レベッカ・ホール他


公開前から賛否真っ二つな上、図らずも国内外を席巻した『ゴジラ −1.0』と同時期上映となった本作。蓋を開けてみればそれなりに集客があるようです。


〈物語〉

香港におけるゴジラとの決戦から数年。地下空洞で暮らしていたコングはある日自分とよく似たタイタン(怪獣)達の襲撃を受ける。コングとコミュニケーションが取れる少女・ジアは地上での暮らしの中、地下の異常を感じていた。

その地上で他のタイタンの監視を続けていたゴジラがローマを襲ったタイタン・スキュラを撃退した。秩序を維持する通常の行動と思われたが、ゴジラはそのまま原子力施設を破壊、更には北極のタイタン・ティアマットを自ら襲う。何が起こっているのか?

ジアが感じていたのは地下空洞からのSOSだった。どうやらゴジラの行動もその波動に関わるらしい。一方地下空洞ではコングが自分を襲撃したタイタン達の巣を発見していた。その集団の長・スカーキングと対決・重症を負ったコングは地下空洞の危機を感じ取り、地下にやって来たジアとの‘会話’を経てある決意をする…。


*新たなるゴジラ映画か?

本作のことはティザーやキービジュアルから様々な意味で「大丈夫か!?」と不安になる一方で「新しいゴジラ作品の方向・可能性を示す事になるかも」という思いもありました。いずれにせよゴジラとコングが肩を並べて走るビジュアルはほぼネタバレだろうと考えていました。

で、結果は9割方予想通りの内容でした。

ざっくりと言って本作は『アベンジャーズ』『ジャスティス・リーグ』各作品のモンスターバース版であり、アメリカ映画の得意とするバディ・ムービーでもあります。近年様々な可能性が模索されているゴジラ・シリーズですが、過去作にとらわれない限りこんな方向もありかな、と考えます(極右武闘派ゴジラファンだった私も丸くなりました)。

人間側の主人公達の危機に颯爽と出現し、敵怪獣の群れに突っ込んで行くゴジラとコングは正に騎兵隊でありアメリカン・ヒーローの鑑、思わず「よっしゃあやったれ!」と声を上げたくなる痛快さです。

地下空洞世界が一時的な無重力(無重量)状態になる中、巨大な岩塊だけを足場に空中で繰り広げられる怪獣同士の肉弾戦など、とても日本の怪獣映画の発想からは出てこないでしょう。


*シリーズ化の難しさ

と、まあ褒めるのはこの位にしておきましょう(笑)

2014年の『GODZILLA ゴジラ』からちょうど10年目を迎えた「モンスターバース」シリーズは前作『ゴジラVSコング』で一応の完結を見た、と私は考えています。2大怪獣の戦いの決着が着いた以上、後日譚ではどちらかを主軸に据えた物語にもう一方が関わる、多少のいざこざはあっても共闘する。物語の単純さは大きく動く背景や格闘のアイディアで彩る事でカバーする。私が本作を『アベンジャーズ』などになぞらえたのはこのフォーマットに乗っているからです。

しかしいかにアイディアをひねって続編を撮ろうともマンネリへの道を回避することは非常に難しい。ジェームス・ボンドはスパイアクションからメカアクションへ、果てはスペースシャトルも操縦します。価値観の異なる正義の元に行動していたスーパーマンとバットマンの両雄も確執の後に他のヒーロー達とチームを組んで闘うことになります。昭和ゴジラも然り、核兵器の申し子は少年たちの叫びに呼応してファイティングポーズで救いに現れるに至ります。そして閉塞感から逃れる為の魔法の言葉「原点回帰」が語られるか、積み上げた世界をリセットするしかなくなるのです—上に挙げた作品群がそうしたように。本作の行く末はまだ分かりませんが、その先に『ヤング・コングの夜明け』などという副題の作品が出てこない事を祈るばかりです。

(SW ep.9が嫌いな訳ではありませんが、二度焼きは遠慮したい、と思います。)


*本当に人間は要らなくなる

私が最も注目した本作からの重大な変化は

「怪獣たちが人間のように演技をする」

という点です。元々巨大な猿(劇中の古代の記録にそう記されています)であるコングやスカーキングはまだ分かるのですが、ゴジラやモスラでさえ見事にお芝居をします。咆哮しつつ身振り手振り、‘顔芸’に至るまでこなす彼らは完全に「俳優」です。台詞なしでも何を話し何をもめているのかがハッキリ伝わってきます。

こうなると持論でありながら前作『ゴジラVSコング』で疑問を持つに至った「怪獣映画に人間ドラマはいらない」という考えが益々怪しげに思えてきます。コングと繋がっている少女ジアと地下空洞で生き延びてきた彼女の同族がわずかにゴジラの行動とモスラの復活に寄与するだけで、極論を申せばそれすらも無しで成立しかねないのが本作です。

物申さず、何を考えているのか分からないのが本来の「怪獣」という存在だった筈です。それ故にクッションとして人間側のドラマが最低限必要だったのだとすれば…。もはやそれすらも要らないまでに物語を雄弁に語り立ち回る怪獣たちは『トム&ジェリー』や『ワイリーコヨーテとロードランナー』を連想させます。画と音楽・効果音だけで全てが表現される一連の米国アニメ作品群と同様のものがゴジラを用いても成立してしまうのです。本作は私に「実は(実写・VFXの)怪獣映画には人間側のドラマが不可欠なのではないか?」という、本来の持論と正反対の疑問を感じさせたのです。

(言うまでもありませんが真逆の怪獣映画が『ゴジラ−1.0』でした。)


*両雄は何故再戦したか

前作で決着を見たゴジラとコングはエジプトで再び戦います。コングは地下空洞でのスカーキング一党との対決の為、ゴジラに共闘を呼びかけに地上に現れますが、当のゴジラはコングを見るなり問答無用で殴りかかります。本作のゴジラの行動はとにかく「横暴」のひと言に尽きるので、このシーンも「聴く耳持たず」といった風に見えるのは確かなのですが…。前作でゴジラはコングを圧倒しながら、メカゴジラを倒したコングに背を向け去っていきました。この時コングの持つ斧(ゴジラの背鰭でできています)を破壊しなかったのが重要です。コングを取り巻く人間たちの前でコングに華を持たせた、ゴジラには言わば「大人の分別」があるのです。

そして本作のゴジラは地下空洞からの信号(SOS)に呼応している—この点に着目すると傍若無人に見えたゴジラの行動は一貫したものと解釈できます。怪獣や核施設からエネルギーを吸収し蓄え、地下空洞での「決戦」に備えているのです。当初からゴジラはスカーキング達と単身戦うつもりだった訳です。いざエジプト・ピラミッドの空洞入り口から地下へ…そこへ現れ共闘を持ち掛けようとするコングはゴジラにとって邪魔以外の何者でもなかったのではないでしょうか。つまり、

「俺の喧嘩に割り込むな!」

という事です。流石本シリーズの‘俺様ゴジラ’です。

結局は女房(モスラ)に一喝されてコングと共に地下空洞に殴り込むのですが…何だか清水次郎長みたいです(次郎長の奥様のお名前はおちょうでした、モスラは蛾ですが)。因みに本作でもスカーキングへのトドメはコングに任せ、スカーキングに支配されていた怪獣・シーモにも仕返しの機会を与えています。

どこまでも親分肌のゴジラであります。


*笑顔で観よう

本作の副題『新たなる帝国(原題も‘The New Empire’』はコングがスカーキングの恐怖支配から開放した同族の長となる事を意味しています。名実ともにコングが地下空洞の頂点に立つ訳です。一方のゴジラは地上においての怪獣王であり続け…まあ用がなければ寝て過ごし、秩序を乱す怪獣を感知すれば叱り飛ばすか抹殺するかしていきます(本作ラストでも用事は済んだ、とばかりにコロッセオをベッドに寝てしまいます)。コングは解放者として、ゴジラは力を持って「キング」となる辺りは良くも悪くもアメリカ映画だなあ、と言ったところですが、やんちゃなゴジラもそれはそれで面白いのではと思います。

今回の文章、少々投げやりで伝法な調子であることはお気付きでしょう。その通り、本作はつまりそう言う作品なのです。難しい事は放っておいて、地下の人類のSOSに応えて暴れまくるゴジラと相棒・コングを愛でるアクション映画なのです。


最後に。

「地下の人類の」云々と記しましたがその人類は地上と地下との通路を守るゲート・キーパーでした。ゴジラが守ったのは彼らではなく地上と地下空洞の「秩序」です。前々作『キングオブモンスターズ』で描かれていますが、モンスターバース・シリーズのゴジラは人類のことなどほとんど見ていません。環境の一部程度には認識しているかも知れません。数年前から更新がストップしている「ドハティの神話」考察の記事の最後にこの点に触れることになります。なるべく近々にこの宿題に決着をつけるつもりでおります。