先日までのブログで博多を基点とした旅行の様子を記しました。目的のひとつは「怪獣映画のロケ地を回ろう」というものでしたが最も多く観て回れたのは『空の大怪獣ラドン』のロケ地でした。
今回はその『ラドン』のご紹介と個人の感想を綴ってみます。
『空の大怪獣ラドン』(1956年)
監督:本多猪四郎
特技監督:円谷英二
音楽:伊福部昭
出演:佐原健二 白川由美 平田昭彦 他
〈物語〉
九州・阿蘇山に近い炭鉱での突然の出水事故。巻き込まれたふたりの坑夫のうちひとりが斬殺体となって発見された。更に捜索に入った警官・坑夫らの3人が犠牲となる。行方の分からないもうひとりの犯行か。だが炭坑技師の河村(演・佐原健二)と被疑者とされる坑夫の妹キヨ(演・白川由美)の前に姿を現した‘真犯人’は巨大なヤゴだった。警官隊、更には駆けつけた自衛隊と共にヤゴを追って坑道に入った河村は突然の崩落に遭い、行方不明になってしまう。
一方、正体不明の飛行体を追跡した自衛隊の戦闘機が空中分解を起こした。謎の飛行体は世界各地に被害をもたらす。空飛ぶ円盤か。地球は狙われているのか。そんな報道が流れる中、崩落のあった坑道とは全く離れた場所で河村が発見された。閉じ込められた坑道で目撃した驚愕の光景により、河村は記憶喪失になっていた。
世界を震撼させる超音速の飛行体の正体は、そして河村は一体何を目撃したのか!?
*待望されていたレストア
東宝初のカラー怪獣映画である本作はリバイバル上映・テレビ放映も多い人気作品です。しかしフィルムの劣化が激しく、全体の黄ばみや白茶けた空の色は長く修復が待たれていました。一昨年の12月、4Kデジタルリマスタリングを施された本作が「午前十時の映画祭」で幕に掛かり、撮影当時の色を取り戻した姿がお披露目されました。
*大空の蒼・大地の紅
甦ったフィルムが伝えてきたのはまごう事なく高い高い蒼空を飛翔するラドンの姿でした…と言っても戦闘機隊の攻撃を受けるまでその姿は高速で引かれる飛行機雲や一瞬横切る影のみです。その描写とどこまでも蒼い空はリアリズムよりもむしろラドンの神秘性を現しているかのようです。自力で飛べない人類が近づいてはならない不可侵の領域の存在、言わば異世界の存在がラドンなのだと感じられます。
一方フィルムのレストアにより意外なほど色合いとその力を蘇らせたのが大地の色です。阿蘇の火山活動やラドンとの攻防により度々地割れを起こす本作の大地、その裂け目が露にするのは土色よりむしろ紅です。物語前半は巨大ヤゴ・メガヌロンによる惨劇を中心に展開し、犠牲者の姿もリアルに描かれます。漂う死の匂いに呼応するかの様に大地もまた真っ赤な傷口を晒します。死・傷口、これらは「生」即ち現実世界の象徴でもあり、ラドンの存在の対極であるとも思えるのです。
*伊福部音楽
本作の音楽は『ゴジラ』(1954年)でお馴染みの伊福部昭です。大地を踏み締めて重々しく進撃するゴジラに対し、マッハで飛行する巨大怪獣はどう表現されるのでしょう。
意外なことにオープニングタイトルはゆっくりとしたテンポと低音の管楽器の導入から始まります。そこにピアノの不協和音が加わり不気味な未知の怪獣の存在が示されます。これがラドンのメインテーマとなり、ラドン中心の場面に用いられるモチーフになります。
一方空中戦や博多・天神一帯の破壊シーンにはマーチが採用されました。マーチが人類攻勢のテーマということです。このルールが常に守られ、人類対ラドンの戦いの趨勢を音楽で演出しています。
ただし最も印象的な音楽はラドンと自衛隊戦闘機とのファーストコンタクトの場面です。後の空中戦と同じ主旋律を用いながらもここはローテンポでもマーチでもありません。ラドンを発見し追跡にはいる戦闘機、ハイテンポのピアノから入るトランペットのスピード感が映像を引っ張っていきます。飛行機雲でしか姿を見せないラドン、追い縋る戦闘機、音量を抑えエコーを効かせた音楽が遥か高空の追跡戦を演出し、遂には青い空に超音速で描かれる白いループと戦闘機が空中分解する様が人知を超えた飛行怪獣の脅威を見せつけます。
*天と地と
物語が進むにつれてラドンと人類の距離が近づいてゆきます。
阿蘇にラドンの行方を求めた河村や古生物学者の柏木(演・平田昭彦)らは阿蘇に潜むラドンを発見しますが、一行の目前でラドンは再度空へと飛び立ちます。ここではまだラドンと人類が同時に映される場面は一瞬です。しかし福岡に向かうラドンを自衛隊の戦闘機隊が追撃、ラドンを海上へ誘導すべく空中戦を展開すると、飛行機雲から徐々にラドンが実体を現し、遂には人類と同じフレームに写り始めるのです。異世界と現実との接触—触れ合ってはならないもの同士が一線を超えたとき悲劇が始まります。
傷つきながらも自衛隊機の追撃を振り切ったラドンは福岡・天神地区に不時着します。有名な岩田屋デパートを中心とした一大破壊シーンです。ここでは飛び立てないラドンを包囲した自衛隊が一方的な攻撃をする様子が描かれます。マーチが人類攻勢を響かせ、羽ばたこうとする苦しげな—それでも猛威となる—ラドンのテーマをも押し潰して鳴り続けます。終幕かと思われたその時、突然もう一頭のラドンが飛来、自衛隊の火力が分散した隙に辛うじて飛び立った地上のラドン共々いずこへともなく飛び去ります。後には猛火の中壊滅した博多の街と破壊を免れたネオンサインの無意味な輝きが残り、夜の静寂がひと時世界を包むのです。
地上に降りてしまい文字通り袋叩きにあうラドンの姿は悲痛ですが、緻密に造り込まれた巨大セット、効果を計算し尽くした特撮技術、高らかなマーチと劣勢の中猛威を振るうラドンのテーマ曲が完璧な調和を成し見事なスペクタクルが成立しています。
*沈黙というBGM
実は本作の音楽で一番凄みを感じるのはラドンと人類との最後の戦いの場面です。
帰巣本能を手がかりにラドンの住処を発見した人類は、阿蘇の大噴火の危険を承知で総攻撃を決定します。その会議のシーン冒頭から、それまでスクリーンを彩った音楽は一切流れません。整然と攻撃の準備を進める自衛隊の様子が淡々と描かれ、命令一下大型ロケット弾が発射されます。間断ない攻撃、まだ傷が癒えず飛び立てないラドン、執拗に続く攻撃シーンは長過ぎるのではと思わせるほどです。やがて恐れていた阿蘇の大爆発が起こり、飛び立ちかけたラドンを焼きます。心配するかの様に飛んで来たもう一頭のラドンも噴火・噴煙に捕まって墜落してしまいます。この辺りからようやく悲壮感溢れる音楽が流れ2頭の巨獣は重なりあったまま溶岩の中に消えてゆくのです。悄然として見つめる主人公たちの複雑な表情と猛り狂う阿蘇山を映して物語は終幕を迎えます。音楽が抜かれた事で観客はただスクリーン上の「事実」だけを観るのです。結果、居場所のない時代に生まれて来てしまったラドンの悲劇、自らの生存の為にラドンを抹殺せんとする人類のエゴがかえって鮮明になり、阿蘇噴火によってそのいずれもが自然の前では公平であり卑小な存在なのだということが浮き彫りになるのです。
*二大怪獣のアイデンティティ
『ゴジラ』(1954年)のラストは人類の勝利、犠牲となった芹澤大介博士への哀悼を通して平和への祈りが描かれました。これに対し『ラドン』のそれはラドンに対する哀惜と自然を前にした人類の無力さが前面に出されたものと感じられます。人類の過ちによって異形の存在にされた怒れるゴジラと、時代を誤って生まれた迷えるラドン—両者のキャラクターの違いがその最後の余韻の違いとなって現れたものでしょう。
大被害をもたらしたとはいえ意図的に人類を襲う事のなかったラドン、その余りにも哀しい最期は私を惹きつけて止みません。多くの特撮ファンを魅了して止まない『空の大怪獣ラドン』、68年前のクラシック怪獣映画はこれからも輝きを失うことはないでしょう。