公開から2週間が経過した、

「GODZILLA KING OF THE MONSTERS」

ご覧になった方もおられることと存じます。
私は最速上映こそ逃したものの、初日09:00の回と、翌日の20:40の回で鑑賞しました。
(実は更に翌日の夜の回も予約していましたが、突発的な仕事により断念しました。)
そうして先週半ば、ようやく3回目の鑑賞に足を運びました。この間多くの方々が既にブログに感想を記され、またツィッター上でも話題となっています。私は1回目の鑑賞でどうもピンと来ず、2回目でようやく満足したので細部に目がいっているのか判らなかった上、生来の「糠味噌アタマ」の所為ですぐには感想が文章にまとまらずに3回目の鑑賞を迎えました。幸い、2回目鑑賞時に取りこぼしていた処はなく、ブログで触れてみよう、と思い立ったものです。
この間、本作の感想をあげた皆さんのブログにお邪魔してコメントをさせていただいた事、感謝いたします。そのコメントがこれから綴る私の感想のそれぞれ土台となっていることをご報告いたします。もしも公式パンフレットや既出の書籍類の情報と異なることを記したら…大目にみてください。

総評として(ネタバレぎりぎり無し)

私的な結論から先に申し上げます。
この映画は昭和・平成のゴジラシリーズを現代の技術で復活させた「怪獣映画」です。それ以上を期待してはいけません。あくまでも「シリーズ」を復元したものであり、第1作でも、「シン・ゴジラ」でもありません。むしろ真逆の方向性を持った映画です。ですから怪獣の出演場面を純粋に楽しむ「だけ」の為に足を運ぶべき映画です。それだけの為でも、十分に楽しめますし、怪獣ファンならば存分に楽しめる筈です。怪獣映画とは「歌舞伎」です。ゴジラという千両役者を中心にスター怪獣が一堂に会し大見栄を切る、人間の実力派俳優が華を添える。これが怪獣映画の基本であり、それを忠実に再現したのが本作です。

前作(2014年、ギャレス・エドワーズ監督作品「GODZILLA 」、以下ギャレゴジ)は1954年の第1作「ゴジラ」を強く意識した一方で、現代的な感覚も取り入れ生物感にも拘った上質の「モンスタームービー」でありました。
しかし今回マイケル・ドハティ監督とスタッフが創り上げたのは「怪獣映画」であります。昭和の「対」シリーズ、「平成vsシリーズ」のある種の昇華と言えます。ギャレゴジではゴジラの引き立て役であり、人間側の主人公と怪獣世界との橋渡しに過ぎなかった敵怪獣=ムートーに対して、今回ゴジラと相対するのは‘あの’キングギドラです。更にラドン、モスラと言う2大怪獣が登場し両雄の決闘に乱入します。東宝特撮華やかなりしふたつの時代の怪獣対決が現代の技術で新しく、そして鮮やかに蘇ります。その凄まじさは劇場に足を運ぶに十分以上のものです。

監督のドハティ氏は、前作のギャレス監督に負けず劣らずの怪獣マニアです。その彼が本作に捧げた過去作に対するリスペクト、オマージュは膨大な量にのぼり、正直「そこまでやるか」と幾度か茫然となりました。「ゴジラを上手に復活(再生)させねばならない」命題を負わされたギャレス氏は、拍手を送ると同時に少々悔しく思っているかも知れません(縛りのない本作は‘好き放題’です)。因みにふたりは次作「ゴジラvsコング」の監督と共に3人で会う機会を設け、本作に向けて大いに語り合ったという事です。ドハティのリスペクトやオマージュは、あまり詳しくはない観客にも大いに楽しめるよう工夫されていると感じます。

巨大な三つ首の黄金龍・ギドラ、超音速の火の鳥と化したラドン、極彩色の羽根に神々しい煌めきを纏ったモスラ、そして遂に‘覚醒’する怪獣王ゴジラ。現代の映像で蘇るあのスター怪獣たちの大激突は間違いなく一見の価値あるものです。鑑賞するなら是非スクリーンに足を運び、その全身で‘体験’して欲しい作品です。

「話題」のドラマパートについて
(これからご覧になる方も大丈夫、な程度のネタバレ)

さて、本作を語る上でとにかく賛否の分かれるドラマパートについて、触れない訳にはいかないでしょう。その為に、本作の前の作品である2014年の「GODZILLA 」のドラマパートを振り返ることにしましょう。

前作・ギャレゴジでは人間サイドの主人公が家族を救う為に奮闘します。その為とは言え執拗にゴジラやムートーに絡む点が鬱陶しいほどです。しかしそれもハリウッド製作である以上仕方ない、と割り切ることができます。
というのも欧米の一般的な観客は、自分の眼の代わりに劇中で動いてくれる登場人物がいないと、怪獣映画を観ることが難しい。自己投影のできる存在の居ない作品には、ドキュメンタリーでない限りその世界に入り込めない様なのです。
この点を逆手に取った「クローバーフィールド」(2008年 マット・リーヴス監督)は見事な怪獣映画と言っていいでしょう。)
一方でギャレス監督は知っていました。怪獣という存在は本来人間が関われるものではないと熟知していました。その点は怪獣ファンの彼にとって譲れないところだったでしょう。そこで敢えて主人公を怪獣と関わらせて観客の視点を巧みに劇中へと誘導し、しかし劇中の「事件」に対して決定的な働きをさせない、という手法を取ったのです。
結局主人公は何もできずに、最後には成り行きで家族と再会するドラマが、かえって「所詮人間は怪獣にとって無関係なもの」という視点をくっきりと浮かび上がらせました。そしてその視点が、渡辺謙演じるDr.セリザワら人々の見送る中、海へと帰って行くゴジラを映すラストシーンの荘厳さを強調する効果を生んでいます。
因みにそのシーンでゴジラを映す報道の巨大ビジョンに
「‘怪獣王’は‘救世主’か?」
とテロップが付きます。本作はこの命題をも引き継いだ作品です。

前作の核心部を引き継ぐ本作のドラマパートに於いてもその姿勢は変わりません。主人公は家族を救う為に、ほとんどなりふり構わず行動し、結果として憎んでいる筈のゴジラに関わってゆきます。
そしてその展開を指し、
「場当たり的で、内容が薄い」
という批判を受けているのです。
しかし、これは先にお話したとおり、一般の観客を怪獣まで誘導する為の止むを得ない、しかし優れた手法です。ドハティ監督も基本としてこの方法を採用しました。何故でしょうか。私はふたつの理由があると考えました。
ひとつは、所謂「パニック映画」「クライシス映画」において、
「家族を救う為には全てを捨てる。それがヒーロー・ヒロインである。」
と言うアメリカイズムがハリウッド映画の定番である、という事です。これを取り入れない映画は話題になりこそすれ、客を呼べないかも知れないのです。どんなに迫力ある映像を見せようと魅力あるガジェットを登場させようと、共感できる‘登場人物’が存在しないパニック映画は「売れない映画」となる可能性があると言う事です。巨大な予算を注ぎ込んで製作される「大作」ほど、この縛りは強くなる事でしょう。
アメリカで製作される以上それが「巨大隕石を命がけで破壊する」映画であれ、「巨大怪獣が暴れるなか家族を救う」映画であれ、アメリカ映画のフォーマットから外れることは許されない宿命にあるのです。
勿論、だからといってドラマパートがおざなりで良いわけではありません。私も本作のドラマ部分を「良い出来」だとは思わない。
しかし「怪獣は人類の関われない存在である」という主張を貫く為には、主人公が怪獣たちの闘いそのものの行方を左右する様なお話にはできません。(その誕生や復活になにがしかの役割は負っても、自らの知恵や力によって事態を収拾することは叶いません。)怪獣たちの物語と人間たちの物語は決定的には交わることがない—本作の(前作も)怪獣パートと人間パートの解離、そこから来る物語のちぐはぐさは、前作・本作共に必然であり宿命でもあるのです。

そして、ゴジラ映画を含む過去の東宝特撮を少しばかり冷めた目で振り返ると、ドハティ監督の目指したもの、即ちふたつ目の理由が良く判ってきます。
「怪獣映画において、ドラマパートはあくまでも付属物である。」
怪獣映画は「怪獣の活躍シーンありき」の非常にいびつな映画です。過去ドラマパートが特撮パートを凌駕した東宝空想特撮作品が、果たしてどの位あったでしょうか。実のところドラマパートは、特撮パートに上手く寄り添い、特殊技術を見せるだけの「映像」ではなく一編の「映画」の体を整える為のものに過ぎません(その中での優劣は確かに存在しますが)。観客が作品に期待するのは時代時代の最先端の映像で織りなされる「怪獣の息づくパラレルワールド」や「見た事のない光景」であって、「良質な人間ドラマ」は二の次なのです。必要なのは怪獣絵巻のガイドであり、成功例は「特撮場面のリアリティを裏打ちするもの」として賞賛されるのです。
ただそんな中で、例えば役者さん達のお芝居が(どれだけ陳腐な脚本であろうと)ドラマの質を引き上げることが過去しばしばありました。本作においても同様の部分は感じます。

因みに「シン・ゴジラ」はその様なかつての特撮映画の文脈を熟知した上で、ドラマパートはあくまでも特撮パートを補完するだけのものとして扱い、余計な人間ドラマを極力廃した結果、日本映画としては稀な大パニック・ムービーとして成功しました。そしてそのスタンスがかえって群像劇としての魅力を醸し出しているのだから、映画とは不思議なものです。
 
以上ふたつの理由を踏まえた上で本作のドラマパートを見直すと、マイケル・ドハティという監督が手堅くかつ攻撃的に、実にしたたかに本作を提示してきたことが見えてきます。おそらく現在上がっているドラマパートに対する批判は彼にとって「想定内」のものなのでしょう。少なくとも私はそう感じます。彼は内心思っているのではないでしょうか。
「そこはオマケみたいなものだ。僕が観てもらいたいのはそこじゃないんだ。先ずは昔のゴジラ・ムービーみたいに観て欲しいんだ」
と。

そう、本作は「先ずは怪獣たちの物語を主軸にして鑑賞する」べき作品であり、ドラマパートにはあまり大きな比重はないのです。そして現在一部で物議を醸している「ドハティが観せたかったもの」はその先に存在しているようなのです。
次回のブログではネタバレ全開で感想を記し、マイケル・ドハティが見せたかったものを考えたい、と思います。

その前に、明日もう一回観てこよう。今度は立川極爆上映だ。