タイトルには違うが出勤ではない。その日は立川へ出向く為にいつもの通勤路線に午前8時半に乗った。普段より3時間遅い時間だ。陽射しは明るく暖かい。最近運行を始めたコミューターバスを降りて駅前を見ると、思いもかけない人の数である。バスへの乗り換え客がほとんどだが幾人かはそのまま歩いて行く。地元の駅でこれ程の人混みを見るとは思わなかった。

ホームで電車を待つ通勤客の多さにも驚く。ホームに滑り込んだ電車の窓の向こうも人でいっぱい、扉が開くと結構な利用客が降りてくる。時間から考えて近隣に職場があるのか、出先へと向かうものだろう。電車に乗り込んで見ていると、比較的短い区間で乗降が繰り返されている。制服を着た学生が少ないが、考えてみればこの時間に駅や電車にいては遅刻間違いなしだ。

ありついた席に腰掛けて乗り降りを見続け、ふと車窓に目を移すと、景色がゆっくりと流れて行く。電車は私の出勤時と同じ速度で走っている筈だ。何処かゆったりと時間が流れているのは、私が休日だからか。利用客の表情も普段私の見ているそれとかなり異なっている。柔らかいのだ。私が知っているのは疲れ、強張り、あるいは眠そうな顔ばかりだった様な気がする。同じ通勤客でも3時間でこれ程違うものか、と驚いた。

高校時代から続く早朝出、往復4時間の通勤・通学を不自然とも苦とも思わなかったが、こうして知らない時間の通勤風景を見ていると異なって感じる。通勤中に読書はできる。今では映画やテレビ番組も観られよう。しかしそれらは通勤時間の活用法に過ぎない。家族と憩うことや入浴などはできる筈はない。近隣に勤める人々の方が自由に使える時間の絶対量は多い。無論、何に重きを置くかで考え方は人それぞれだ。自らの自由より快適な持ち家や家族の日常を優先する通勤もあろう。

乗っては降りる人々を見続けながら、最近通勤中にあまり他人の顔を見ていないことに気づく。固定された生活リズムの中では人間の視界は狭くなるらしい。狭い視野の中で、自らを省みる為の定規も硬く短い物になるだろう。
そこに背負ったものは何だろう—電車を降りてゆく見知らぬ男性の背を見送りつつ、ときに日常のリズムから外れてみる大切さと贅沢さを改めて思う。