令和6年3月20日は恩師町田裕さんの29回忌です。


お彼岸の中日、お仏壇に町田さんの遺影をお供え、般若心経を唱えながらありし日の町田裕さんを偲びました。


当時、町田裕さんは昭和音楽大学生涯学習センター 所長、昭和音楽芸術学院主事、(社)全国公立文化施設協会「芸能情報プラザ」アドバイザー、


(有)シアターアーツ・マネジメント 代表取締役、文化経済学会(日本) 会員、(社)劇場演出空間技術協会会員でした。


館長就任当時、文化庁や外郭団体の芸術情報プラザでは雪深い魚沼にオープンする小出郷文化会館に民間で若干39歳の大工の館長が誕生したことが話題になります。


(社)全国公立文化施設協会の芸術情報プラザから連絡が入り、当時上野にあった事務所で町田裕ヘッドアドバイザー(元劇団四季会長・昭和音楽大学生涯学習センター所長)とお会いします。
町田さんは、私の顔を見るなりニンマリと微笑み、あなたが桜井さんですね。会館の準備は順調に進んでいますか?私は小出郷文化会館の建設経緯に大変興味がありますと切り出します。
ありがとうございます。と深々と頭を下げ、私案の小出郷文化会館企画運営プラン(マニフェスト)「明日に向かって翔け小出郷文化会館」をお渡して、住民による文化を育む会の活動経緯を報告します。
すると、町田さんは芸術情報プラザが会館オープン前にアドバイザー数人連れて、小出郷広域で調査を実施したいと熱のこもった口調で語ります。
調査結果は来年に青森市文化会館で開催する(社)全国公立文化施設協会の総会で紹介したいと思ってもみない提案があります。私は上司に伝え検討しますと即答はひかえました。
この提案はのちに実現し、年を超えた1月と2月に芸術情報プラザのアドバイザーが3回に分かれて小出郷を訪れて、現地調査とアンケートを実施して報告書をまとめています。

そのアンケート調査には昭和音楽大学音楽芸術運営学科アートマネジメントコースの4年生の学生が会館建設準備室に10日間通いアンケートの準備をしています。

続けて、桜井さんは村山大蔵大臣の選挙区の新潟3区ですよね。魚沼地域で村山大臣の後援会を担う名士と繋がりがありませんか?と聞いてきます。私は思わず○○酒造の会長さんを思い浮かべ、あります。と即答します。何故か運命的な出来事のように感じ、雲の上の企みに興味深く聞き入ります。
実は文化庁の補助金事業の予算が少なくて困っている。日本の地方文化芸術活動が停滞してることから国の文化芸術予算について仕掛けを考えていると。
それは、平成8年度芸術文化事業「文化のまちづくり事業」補助金を倍増したいと考えている。力を貸して貰いたいと胸の内を聞かされ、もの凄い事を考えておられる方だなと身構えます。
町田裕氏からの秘策を依頼され、早速行動に移します。魚沼地域の村山達雄後援会長にお会いして、国の文化予算倍増の陳情協力をお願いします。
すると、会長さんは丁度、村山大臣にお会いすることになっていて、渡りに舟とはこのことと、大臣宛に陳情書をしたためてお渡しします。 

村山大蔵大臣の命により、○田秘書(元大蔵省)が文化庁に出向いて補助事業内容を確認したのち、大蔵省の文化芸術予算担当に交渉しています。

○田秘書とは上京するたびに衆議院議員会館に伺って、文化のまちづくり事業の報告するようになり、館長を退任してからも文化庁前にある事務所で○田さんとお会いして情報交換するなど大変お世話になっています。

新潟県長岡市出身の村山大蔵大臣は地元後援会長からの直接陳情を受け、「文化のまちづくり事業」補助金事業予算の倍増を復活予算として決定しています。
町田さんから文化庁予算の決定の連絡が入り、クリスマスイブに東京でお会いします。会場はキャピトル東京でクリスマスコンサートを鑑賞しながら秘策成功を祝います。
二次会は町田さんが行きつけの小綺麗なお店でお祝いの乾杯、この度のお礼と日本の文化芸術の現状や課題、あり方ついてご教授をいただきます。
平成8年度、地方の文化施設へ補助金が配布され、全国で低迷する文化芸術活動の礎となります。私は館長就任まもなく、夢のような出来事に遭遇したのでした。
町田氏は長野オリンピック開会式の構想を小出郷で練られていたり、田中総理大臣の日中国交政策を文化交流で成し遂げた立役者でもありました。
文化庁の土○課長を紹介いただいたり、(社)全国公立文化施設協会や日本中枢の文化組織や人脈などを教えてくださいました。
小出郷文化会館のアドバイザー中野昭(朝日ホール支配人)さんのお話をすると町田さんは中野さんはよく存じてますよとびっくりします。
実はこのお二人は当時の国策、日中国交を締結させるための文化交流として、中国上海舞劇団公演を日生劇場に招聘し成功させた同志だったのです。
中国上海舞劇団訪日公演「白毛女公演」
主催: 日本中国文化交流協会, 朝日新聞社
日程:1972年07月18日〜7月22日
会場:日生劇場他
伴奏:中国上海舞劇団管弦楽団
合唱:中国上海舞劇団合唱隊
女声独唱:朱〓博
男声独唱:簡永和
指揮:陳燮陽、呂其明
9月29日、田中角栄首相と中国の周恩来首相が北京で日中共同声明に調印し、両国は「恒久的な平和友好関係を確立する」ことに合意します。
日中国交正常化直後にお土産として、カンカンとランランのジャイアントパンダが届いたのです。
この世界は狭いものです、中国上海舞劇団の招聘交渉は多額の保険金をかけるなどして命がけのいきさつを聞き、ただものではない町田さんのファンになります。
平成8年3月10日、小出郷文化会館の開館直前トークシンポジウムを企画します。このような強者お二人にお願いして、町田氏と中野昭氏からご登壇いただきました。
この10日後、3月20日に町田氏は突然心筋梗塞で他界します。これからという時に愕然とする訃報、涙が止まりません…大きな支えをなくし、残念で悲しいく辛い出来事でした。😱
儀に参列した席で、昭和音楽大学の下八川理事長が町田氏との大学提携企画(コーラスセミナー・リトミックセミナー)について聞かれ、後日、小出郷文化会館において了承いただき安堵しています。

町田さんのおかげで文化庁や(社)全国公立文化施設協会や芸術情報プラザなどパイプが太くなり、小出郷文化会館は徐々に全国で知名度が高くなりました。

おかげさまで、講演やコーディネイター、シンポジウムのパネラー、大学の非常勤講師、有識者等々400回を超え、このことにより視察も560回を数えました。

また、文部科学大臣表彰や総務大臣表彰(JAFRAアワード大賞)、過疎地域自立活性化事例総務大臣表彰、ふるさとずくり主催者賞も受賞しており、町田さんんのおかげです。

町田さんとの出会いがなければ、文化庁の文化のまちづくり事業補助金を知ることもなかったでしょうし、年2,000万円5年継続1億円も活用することも無かったでしょう。


この文化のまちづくり事業無かったら、『羽田健太郎ヤンクピープルコンサート』や『ルドルフ・マイスターピアノ音楽合宿』『昭和音楽大学提携事業』はできませんてした。

まさに偉大な町田裕さんとの出会いが、小出郷文化会館の運命を切り拓いてくれたのでした。あらためて心よりご冥福をお祈りいたします。合掌…🙏



【町田裕さんの略歴】

昭和2年2月15日 東京生まれ

昭和21年〜 2 4年 早稲田大学在学中、演劇運動(葡萄座/新協劇団)を行う

昭和25年〜3 7年 劇団俳優座経営製作部に入座。俳優座劇場(旧)開場に参画演劇のほかミュージカル(大阪労音等)や映画放送にも携わる

昭和38年〜4 5年 (株)日本生命館(日生劇場)制作プロデューサーとして入社多領域の舞台芸術/芸能の制作業務に携わる海外交流、引越公演にも貢献.

昭和45年 日本ゼネラルアーツ(株)の設立に参加、常務取締役に就任「越路吹雪ロングリサイタル」、ベルリン・フィル、ロイヤル・シェイクスピア劇団などの招聘企画等を担当

昭和48年 (財)舞台芸術センターの常務理事に就任文化庁第二国立劇場設立準備協議会事業専門委員に就任

昭和51年 「伝統と現代」公演(国際交流基金)で宮内庁雅楽・能・文楽の欧州 15都市巡演を企画制作し、公演に随伴

昭和53年文化庁創立10周年記念功労者として表彰を受ける

昭和55年 (株)劇場工学研究所の設立に参画、代表取締役社長に就任昭和60年浅利愛太演出のミラノ・スカラ座「蝶々夫人」初演の制作業務を担当

昭和63年 四季株式会社(劇団四季)取締役会長に就任外務省の委嘱により東南アジアの文化施設を現地調査平成元年劇団四季訪中公演団長としてミュージカル「ハンス」の北京公演に参加

平成2年 (社)劇場演出空間技術協会の設立に参画、専務理事に就任

平成 3年 (株)劇場工学研究所代表取締役を退任四季(株)取締役会長を退任、相談役に就任(非常勤)(有)シアターアーツ・マネジメントを設立、代表取締役に就任東成学固(昭和音楽大学/昭和音楽芸術学院)参与に就任

平成 4年四季(株)相談役を退任日本ゼネラルアーツ(株)取締役を退任

平成8年3月20日 永眠(享年69オ)