大河ドラマ「麒麟が来る」は6月7日第21話の放送後一時休止になりました。新型コロナウイルス感染の影響で収録(撮影)出来なくなったためです。

 

放送再開の時期は不明ですが6月下旬から7月初旬に収録が再開され、8月下旬頃から放送されると思われます。で、大河ドラマ初の越年は確定でしょう。。

 

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先般、明智光秀ゆかりの地、京都府福知山市が「明智光秀イメージ調査」を民間の調査会社に委託して東京都・大阪府の千人にオンライン上でアンケートを行いました。

その中で光秀の印象は「裏切り者」が35.1%、」「教養人」は24,2%、光秀の好感度は20.9%だったそうです。

 

それぞれの数字が多いか、少ないかは捉え方によります。やはり裏切り者のイメージが強く、その影響で好感度も低くなっているようです。

ただ、以前のイメージからすれば時の流れと共に徐々に払しょくされている思っています。

 

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真実は一つ!!明智光秀が本能寺で織田信長を討った。この一点のみです。作られた光秀の謀反人・裏切り者説

 

本能寺の変後、最初に光秀を謀反人としたのは秀吉です。

事件のあった僅か4ヶ月後に完成した創作性の高い、秀吉の秀吉による歴史書、いわば自画自賛の書物を側近で御伽衆の大村由己に書かせたのが「惟任(これとう)退治記」です。

 

ちなみに惟任とは官職名で光秀の能力を高く評価した信長が朝廷に上奏して賜っています。

また、御伽衆(おとぎしゅう)とは権力者の傍にいて、話相手になったり記録したりする役割です(学者?著述家?)

 

「惟任退治記」には「明智討」の項目があって、光秀が信長を討った経緯について大村由己は書いています。

今日に続く光秀のイメージ作りの原点は全てここにあると言っても過言ではありません。確信しています。

 

「講釈師、見て来たような嘘を言い」と揶揄する言葉があります。

(大村さん、あんた光秀と話したことあるの?光秀が信長を恨んでた証拠あるの?逆意とか謀反するって光秀から直接聞いたの?

と突っ込みたくなります。

 

事の軽重を考えた時、秀吉側近の一御伽衆の大村由己個人の思いや考えで書けるものではありません。明らかに秀吉の意向で書かされた事は疑いの余地はありません。

 

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山崎の戦で秀吉に敗れた光秀は居城の坂本城に戻る途中、小栗栖(京都府)で最期を遂げます。

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秀吉は差し出された光秀の首を一瞥、検分した後、「キンカン(信長が光秀につけたあだ名),お主の首を見ようとは思いもせんだったは。ついでにもうひと働きしてもらう ぞ。ふふふ~・・・)

 

真偽の程は明らかではなく俄かに信じ難い話ですが、秀吉は氏・素性の分からない胴体を持って来させ光秀の首と繋ぎ合わせ、何をするかと思えば磔にして焼け跡の本能寺の辻に立て晒しました。

磔刑。いゆまでもなく古今東西を問わず罪人に対する厳罰でかつ見せしめの刑です。

罪人として印象操作をするため磔刑にしたのです。やり方はエグイ。

「光秀は主君・信長に逆意を持ち、殺した裏切り者、謀反人だ」

 

それを正当化するため後付けとして書かれたのが「惟任退治記」です。

”惟任光秀は信長の命令により・・・中国攻めに向かうはずだった・・・坂本城(亀山城?)を出て備中に向かわず引き返して密かに謀反の計画を立てた。これは突発的な思いつきではなく、信長に仕える中で年来積り積もっていた逆意があり、光秀は今こそ謀反を起こす時だと思い行動に移したのだ・・・”

 

光秀を罪人に仕立て上げた「惟任退治記」は世に出て独り歩きを始めます。

抜かりのない秀吉は織田家臣団や朝廷の公家などに、まことしやかに「光秀は逆意があって謀反を起こした。それを看破して成敗したのは俺だ」と流布し印象操作を続けます。

 

秀吉の狙いはズバリ言って織田家を潰し、柴田勝家・滝川一益・前田利家などこれまで織田家を支えていた家臣団を制し天下獲りであったのでしょう。ご存知のように数年後それは実現します。

 

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秀次謀反の疑いあり。

改めて調べてみると天下人になった秀吉は同じようなやり方で13年後の文禄4年(1595年)7月、従兄弟の秀次に確たる証拠も無く「秀次謀反の疑いあり」と嫌疑をかけ高野山に監禁した後、切腹を強要し首を刎ねています。

 

当時、豊臣秀次は2代目関白でした。当然秀吉の後継者として自他共に認められ既定路線でした。
それが一変する事が起きます。なんと秀吉と側室・淀殿の間に子供が出来ます。後の秀頼です。
 
父親になった秀吉は従兄弟の秀次より我が子秀頼の方が当然可愛くなり、成人した暁には秀頼に豊臣家を継がせようと思ったのでしょう。親として理解出来なくもありません。
 
そこで秀吉は密かに裏工作を始め徐々に秀次を追い込んで行きます。ですが、一度は跡継ぎに決めた事もあって秀次の取り扱いに苦慮した形跡は伺えます。従兄弟に死を命ずるのですから当然でしょう。
最後の決め手は淀殿が秀頼を後継者にと強く望んだとも伝えられています。
 
秀吉は光秀にやったように「秀次謀反」を計画、正当化工作を終えると高野山で秀次を切腹させる前に秀次近臣の家臣や小姓らをことごとく斬首や切腹させます。
 
これで一件落着かと思えばそうではなく半月後、子供や侍女・側室・乳母など秀次に近かった者すべて捉え処刑を命じます。
 
処刑するにあたり抜かりなく秀次が謀反を起こしたから罰するとPRして見学者を募りました。
 
8月2日、大勢の京都町民らが固唾をのんで見守る中、京都三条河原に40m四方の掘りが掘られ、さらに3mほどの塚を築いて従兄弟・秀次の首を処刑する所を見下ろすように置き、その前で幼い子供達の首を刎ね、さらに姫君・側室・侍女・乳母ら次々と女・子供39名全員が斬首され、数時間要した処刑は終わりました。
 
これは処刑なんてものではなく大量虐殺でしょう。秀吉が恐れたのは真実が明らかになることではないかと思います。
 
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天下人になるため戦に勝っただけでは飽き足らず、デッチ上げで敗者を罪人に仕立て上げ、さらには我が子を天下人にするため血の通った従兄弟までも謀反人にしてしまう。
従兄弟・秀次一族の虐殺で秀吉のやり方を知ると、光秀の首を胴体に繋ぎ、さらに磔刑にして晒したと伝えられる事はあり得ると強く思いました。
 
「勝者が歴史を書き換え歴史を作り、敗者は”子々孫々”まで類が及ぶ事を恐れ消し去る」
 
蛇足ながら「秀頼は誰の子」で検索すると興味深い話が数多くあって面白いですニヤリ
 
                つづく~