香嵐渓の蘊蓄その2です。これで香嵐渓を終わりにしようとしたのですが、ブログの容量の関係で全部載せることが出来ず、また分割してその3をつくらなければならなくなりました。

ブログは日記ですから、このような蘊蓄話を延々と載せるものではないと分かっているのですが、つい長くなってしまっているようです。

足助八幡宮

伝承によれば創建は天武天皇 (672年壬申の乱で勝利した大海人皇子)の御代で、673年(白鳳 3年)2月21日とされる。一般には西暦663年とされるが、白鳳の西暦換算には2つの説があるためだ。また明治 元年(1868年)の神仏分離 までは境内に神宮寺 があり、現在も鐘楼 だけが残されている。大鳥居は寛政 12年(1800年)に改築されたもので、宮町交差点拡張工事に伴い平成 14年(2002年)に正面から現在地に移動した。 「足助」の名称から転じて、旅行・交通安全・足に関すること全般に利益があるとされている。

本殿(重要文化財) - 檜皮葺の三間社流造社殿で、室町時代の文正 元年(1466年)11月の建立。明治40年(1907年)5月27日、特別保護建造物(現行法の重要文化財 に相当)に指定された。

※流造

流造は、伊勢神宮 などの神明造 から発展したもの。屋根は反っていて、前面に長くのびている。だから側面から見た屋根形状は対称形ではない。拝礼をするところは、さらに屋根を前に長く伸ばしてあり、この部分を向拝(こうはい、庇)という。全国で最も多い神社の本殿形式である。切妻造 平入 で、社殿本体の身舎(もや)の柱は丸柱、向拝は角柱になっている。社殿正面の柱が4本で柱間が3間の場合を三間社流造という。屋根の側面縁を蓑甲、切り妻の破風にある、懸魚(げぎょ)

扁額「鉄砲的打図板額」- 慶長 17年(1612年)に、三河国岩神村(現・足助町内)の沢田四郎右衛門尉が奉納したもので、鉄砲を描いた扁額は全国でも他に3枚しか現存しない。三十三間堂、成田山、東京目黒不動堂など

昭和32年9月6日 愛知県指定文化財

境内のスギ (推定樹齢500年)は豊田市の天然記念物

足助神社

祭神の足助重範(あすけ しげのり 1292(正応 5年)-1332年(元弘 2年・正慶 元年)53日 )は、三河国 武士 足助氏 の七代目惣領である。元弘の変 に於いては、後醍醐天皇の南朝方に与力し、笠置山 に最初に駆けつけて籠城軍の総大将を務めたが、陥落後に捕縛。翌年、六条河原で斬首された。

歴史

重範の死後、足助氏は勢いが衰え、全国に散り散りとなった。三河は室町幕府 の重臣がたくさん出た土地だったので、足助氏の痕跡は地名以外ほとんど残らず、地元でも重範は「賊軍の将」としてあまり語られなかった。しかし1891年(明治 24年)に明治天皇 から正四位 を贈られて名誉を回復。1893 (明治26年)に熱田神宮 から社の一つを譲り受け、1902年(明治35年)に足助神社が創建された。1933年(昭和 8年)には従三位 を追贈され、顕彰運動も活発化。縣社 、更に別格官幣社 に昇格させる計画が立てられ、1943年(昭和18年)頃には新たな社殿の造営などが行なわれたが、敗戦に伴い中断。顕彰運動も立ち消えとなり、再び元の場所(現在地・足助八幡宮 の隣)へ遷座した。

元弘の変(1331年から1333年)

歴史的背景

鎌倉時代 後期、鎌倉幕府では北条 得宗 家(跡取り)が権勢を振るっていた。北条一門の知行国 が著しく増加する一方で、御家人 層では、元寇 後も続けられた異国警固番役 の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣経済の普及、所領分割などによって没落する者も増加していった。幕府は徳政令 を発して対応するが、社会的混乱から諸国では悪党 の活動が活発化し、幕府は次第に支持を失っていった。

朝廷の動き

13世紀後半以降、朝廷 は南北朝時代に入り後深草天皇の子孫(持明院統 )と亀山天皇の子孫(大覚寺統 )の両血統の天皇が交互に即位する両統迭立 が行われていた。だが、公家 社会の中に派閥が生じるようになり、幕府による朝廷の制御を困難にした。

1318年(文保2年)、大覚寺統の後醍醐天皇 が即位し、天皇親政を理想に掲げ、鎌倉幕府の打倒を密かに目指していた。1324 正中 元年)の正中の変 六波羅探題 によって未然に察知され、後醍醐天皇は赦されたものの、側近の日野資朝 佐渡島 へ流罪となった。だが後醍醐天皇は、処分を免れた日野俊基 や僧文観 らと再び倒幕計画を進めた。




このあと鎌倉幕府は倒されていくのですが、歴史では建武の新政などという言葉で習いました。香嵐渓一帯を支配していた、足助氏がこの争乱に深く関係していたとは知りませんでした。