2日目になりました。ライン川はやはり良いですね。ハイデルベルグは町に知的雰囲気がありますね。どっぷりと浸ってきたのです。
7月18日(日)
朝 食
本日は快晴。朝方涼しいのは乾燥しているためもあろう。日差しはだんだん強くなってきているが旅行日和ではある。
予定通りに朝の準備をすませて、6時30分より少し早めにホテルのレストランに行ったら、ウエイトレスが「テンミニッツ」と言って入口で止められた。そこで働いている人はアフリカ系の女性とインド系の男性で、ドイツ人は1人もいなかった。食事はバイキング形式だが、そのようにいうのは日本人だけ。正式にはセルフサービスだ。ヨーロッパにとってバイキングとは北欧の恐怖の集団なのだ。
①パン、②チーズ3種、③ソーセージ4種、④牛乳、
⑤ヨーグルト、⑥サーモンのマリネ、
⑦茹で野菜のドレッシングがけ、
⑧ブルーベリーを挟んだクレープ、⑨スイカ
など、少しずつ他種類に挑戦。水はボトルに入れておいてあったがその量は少なくジュース類が多い。味は基本的に塩味・油味・甘味の3種類の単調なもので変化は少ない。植物系の食品は少ない。このパターンは今後も変化はなく、その味には悩まされることになる。
出 発
7時30分、予定通りにバスで出発。本日の運転手は、「テオさん」。いつも通り、朝の注意を受けてからバスはアウトバーンを西へ進む。ドイツの法律は、バスは100km以下と決めているので、他の自動車にどんどんと抜かれていく。窪谷さんが「アウトバーンは制限速度のあるところ以外は無制限になっていますが、バスは100km以内に決められているのです。」と安全性を強調する。危険を防ぐためか、バスの窓は開かない構造になっている。道の左右は北ドイツ平原の小麦畑が延々と続いている。
リューデスハイム、つぐみ横丁(Drossel Gasse)
1時間ほど走って、リューデスハイム アム ラインに到着。この町はライン川右岸に位置し、ライン川の河港として発達した町でもある。ライン川下りの船は9時15分に出航するので、それまでは「つぐみ横丁」という、幅4~5mの緩い傾斜をした石畳の通りを歩いて見学した。横丁の長さは100m位のものか。朝まだ早いので、ほとんどの店は閉まっているが、お土産屋さん、ビアル・ガルテン、ワイン酒場などが軒を連ね、夕刻にでもなれば大いに賑わうであろう。
ライン下り
上流のライン地溝帯を流れてきたライン川は、この付近でライン・シーファー山地を横切るため、流れを大きく蛇行させ深い谷を刻んで北上していく。そのため両岸は急な崖となっているが、南に面している崖には、“良くそこまで”と思えるほどの急傾斜にまでブドウが植えられている。この辺りは高緯度なので、白ワイン用のリースリング種が植えられ高級ワインの銘柄品になっているようだ。
昔よりライン川は流域の重要な交通路だったので、各領主は防衛や通行税徴収のために多くの城や砦を築いた。それが現在も残り、今度は観光施設になっているのだ。また、ヨーロッパは年間雨量が少なく、川の水量が余り大きく変化をしないので、ライン川両岸には道路と鉄道が敷設され、古くからの町・建物が維持されている。
9時15分に定刻通りリューデスハイムを出発した観光船は、右岸左岸のお城を見ながら、所々の桟橋に寄港して川を下っていく。
クロップ砦、ネズミの塔、エーレンフェルス城、ラインシュタイン城、ライヒェンシュタイン城、ゾーネック城、バッハラッハの古街、シュタールエック城と続く。バッハラッハの桟橋ではたくさんのインド人団体が乗ってきた。ここまで来る間にも、観光船や貨物船、タンカーなどが何隻も通り過ぎていくが船長は操船にかなり苦労しているようだ。
プファルツ城、シェーンブルク城を見たあと、歌でも有名な交通の難所「ローレライ」を通過した。確かにここは難所である。ライン川が大きく蛇行し流れも若干速いし浅瀬もあるようでそれまでとは波の形も違っている。船によってはタグボートに牽引してもらっているものもあるくらいだ。景色を堪能して11時00分、下船地点のザンクトゴアに到着した。
昼 食
バスで、パノラマレストラン「ローレライ」に移動して昼食になった。このレストランは、ローレライを正面にし、景色はとても良い。11時30分より昼食。
昼食のメニューは
①コンソメ風のスープ、セロリ入り
②ロールキャベツのマッシュポテト添え、
野菜のみじん切りを飾りに
③ココアプリンは柔らかめ
④ビール500cc 3.6ユーロだという。
オレンジジュースは2.8ユーロ。ビールが安く、水の高い国だ。
ハイデルベルグへの車窓より
12時10分、ローレライを出発し、ライン川沿い上流に向かって南下をし、ハイデルベルグに向かうことになった。川にはあちこちに航路標識が設置され、下流に向かって右側が「赤」、左側が「緑」色になっている。土砂の堆積もあるから、この航路維持はたいへんであろう。
12時45分、やっとアウトバーンに入った。それまでいろいろ話をしていた窪谷さんもマイクを置き、車内はぐっと静かになった。ほとんどの人は寝ている。昨日の疲れとアルコールのせいだろう。バスのエンジンの音だけが軽やかに響いている。道の左右は、丘陵地帯に変わってきた。小麦、ヒマワリ、ビート、ブドウだけが植えられている。野菜やジャガイモなどを見ることはない。ビニールハウスもない。アウトバーンを1時間近く走ってもその景色に変化はない。変化といえば、丘陵上に何基もの風力発電の風車が立っていることぐらいだ。
1時30分ごろ、マンハイムへ向かうアウトバーンに乗り換えた頃から、ブドウ畑はなくなり、遥か遠方に山脈が霞んで見えてきた。シュバルツバルトであろうか。
ハイデルベルグ城
2時頃、ハイデルベルグ城に着いた。ハイデルベルグはドイツの古城として昔から重要な町であった。歴史によれば、ローマ時代には砦が築かれネッカー川には橋が架けられていたらしい。870年頃に修道院が作られ12世紀頃に現在の基礎となる城が造られ始めた。その後、この地を支配した領主達が何度も改築造築を繰り返したため、ゴシック、ルネッサンス、バロックなどの諸様式を併せ持つ城となった。ところが、1622年の三十年戦争でハイデルベルグにあった書籍は全て略奪され、ローマ教皇に献上されてしまい、また1688年と1693年の2回フランス軍に占領され、この城は完全に破壊されてしまったのである。その後、何度か再建の話があったが実現せず、第二次世界大戦後になって少しずつ再建を進めている。現在も再建と続けている最中で、所によっては350年前に破壊されたままの所もあるのだ。城を構成している岩石は「赤色砂岩」で、この地方では一般的に産出されているものである。加工しやすく明るい感じのする石である。
この城は、かつての修道院だった頃からワイン醸造を行っており、現在も城の地下には巨大な醸造樽が残っていた。3時15分出発。
ハイデルベルグ市内
ネッカー川沿いに発達した河港のため、川の北岸と南岸をアルテブリュッケ(カール テオドール橋)が繋いでいる。ハウプトシュトラッセ(本通り)を歩いて「ユニコーン」という免税品店に入った。皆さんいろいろと購入されたみたいだ。
その後、古市街(アルテシュタット)を歩いたが、マルクト広場、穀物広場、カール広場などがあり、広場の周辺には500年近く前の歴史的な建造物が残っていた。マルクト広場には屋台などが出て賑わっていたが、その昔は、中世魔女裁判が行われ、犯罪者の処刑なども行われた血生臭い場所でもあるのだ。ヨーロッパの町には必ず中心に広場があり市民生活の重要な場所となっている。ドイツの都市が(Statluft Macht Frei)という重要な意味を持っていたことを思い出した。
ハイデルベルグ大学(ハイデルベルグ・ループレヒト=カールス大学)
1386年にループレヒトⅠ世はハイデルベルグに大学を創設し、その後この大学は中世の大学形式を保ちながらドイツ有数の大学として現在も存在している。しかし、大学という建物は存在しない。基本的にはネッカー川の北側に理系学部、南側に文系学部が置かれているのだという。大学は、教授と学生という単位で成り立っており、あちこちの普通の建物の中に教授のゼミが設置されているという形態らしい。道沿いのごく普通の家に、学部を表す「プレート」が貼ってあった。だから大学をユニバーシティと言うのだろう。しかしこの大学からは数多くのノーベル賞学者が生まれているのだから、学問はそれに取り組む人間の力によるところが大きいというべきであろう。
ハイデルベルグについて思う
城や町を見て回ったが、中世の歴史が分かっていないと、ガイドの説明はよく分からない。ガイドも仕事なのだろうが、話は実に面白くないものになってしまう。説明が終わってみれば、何が記憶に残るだろうか。ガイドとはむなしい仕事であるし、観光客にとっても時間の浪費になりかねない。実は、ハイデルベルグには様々に見るべきものがある町なのに、時間の関係で、一部の一部しか見学出来ないのはやむを得ないとは思うが、ドレスデンの時と同じ気持ちしか残らない。マックスプランク研究所にも行ってみたかった。
マルクト広場やその他の広場についてももっとしっかりした説明があっても良かったのではないだろうか。ヨーロッパにおける広場の役割は日本人には理解出来ないものがあるからだ。マルクト広場に多くの人が出ていたが、それらを地元の人達はどのように楽しんでいるのかをもっと知りたいものだった。4時20分、出発。
次はローテンブルグを訪れます。