私がそれを選んでしているのだ。
自分の行いいちいちは
自分の意思で選んでしているのだ。
という意識を
みんなが持つといい。
この非常事態にあって、
特にそう感じる。
普段なにげなくしている
自分の行動パターンが
この機に浮き彫りになるから。
それをもいちど、
確認したり、修正したり。
今まで無意識にしていたことについては、
自分の物差しを確立しようと
考えたらいい。
決めつけてしまうんじゃなくて、
これでいいのかな?
と、一度疑ってみるなら
自分の行い
自分でコントロールし始めたことだと思う。
例えば、
震災後の安否確認。
知人の安否を少しでもはやく確認したいという思いは
多分多くの人が抱くんだろうね。
私がもし被災者だったとする。
家族が不明。
という状況をイメージしてみる。
私だったら、こわくて、
なかなか安否確認の情報を収集できないな
と思う。
頑張って探して、
残念でしたっていう結果に行き着くこともあるわけでしょ。
だったらそれを急いでしないな。
安全を信じて見つけ出したい,という気持ちはあるだろうけど、
同時に、否を見つける場合もあるんだから。
たぶん、必死には探さないな。
必死に、
今そこで助かってる仲間と、
どうやって生き延びるかの作戦ねるな。
生きるときは生きる、死ぬときは死ぬ。
そういう感覚だ。
ドライなのかもしれないね、
って、母と話していた。
例えば、
原発事故で放射線量が増えてること。
ある番組一つをとっても、
心配ないという専門家と、
心配ないとは言い切れないという専門家が出てくる。
それでいい。
起こってる出来事について
それを心配ないと考えるのも
心配だと考えるのも、
最終的には私でしかない。
どっちなんだ?!とわめくことはない。
誰にもわからないんだから。
専門家は素人より
その件について知ってることが多いから
専門的な判断規準を自分の中に持ってる。
私には自分でその事象について
判断する専門的な規準はない。
でも、情報や様々な考え方を知って、
自分の規準でかんがえて、
どうするか決めたらいい。
正確な情報をという言葉をときどき聞くが、
正確であるかどうかなんて、
わからない。
し、わからなくていい。
投げ出された情報は、
正確か、正確でないかも含めて、
私のほうで判断せざるを得ない。
なにを信じて、
なにを疑うか。
自分の目と頭と心、
精神と身体を総動員して
自分で判断して行動する。
しかない。
きっと、
普通の毎日でも同じようにしてきた。
今まで生きてきた中で培われてきた
私の価値観
私の行動規準が
私を動かしてきた。
それがこういう事態でだ。
やたらあからさまになる。
今自分にできることを少しでも、
と、
節電する。
それもいい。
お金だそう。
それもいい。
普通に暮らしていよう。
それもいい。
自分が
いい
と思うことをしよう。
節電しようとおもっても、
できることは
あったかい便座のスイッチを切ることくらい。
いつもどれだけ慎ましく暮らしてることかと
自分を褒めたくなる。
買いだめしようとなんて思えないほど、
冷凍庫に溜まってる食料。
大事に食べるよ。
トイレットペーパー、
普通にしていて、
あとロールが二つだけ。
買い溜めしないでね、みんな。
今なにをするか。
いつも
自分の中の真を信じて
つないでいった結果が
このわたしなんですよね。
この私が
はずかしがらずに表に立てるように。
自分を生かしていきたいもんです。
今、
わたしはありがたいことに、
生きているんですから。
今日も、
祈りのうちに。
自分の行いいちいちは
自分の意思で選んでしているのだ。
という意識を
みんなが持つといい。
この非常事態にあって、
特にそう感じる。
普段なにげなくしている
自分の行動パターンが
この機に浮き彫りになるから。
それをもいちど、
確認したり、修正したり。
今まで無意識にしていたことについては、
自分の物差しを確立しようと
考えたらいい。
決めつけてしまうんじゃなくて、
これでいいのかな?
と、一度疑ってみるなら
自分の行い
自分でコントロールし始めたことだと思う。
例えば、
震災後の安否確認。
知人の安否を少しでもはやく確認したいという思いは
多分多くの人が抱くんだろうね。
私がもし被災者だったとする。
家族が不明。
という状況をイメージしてみる。
私だったら、こわくて、
なかなか安否確認の情報を収集できないな
と思う。
頑張って探して、
残念でしたっていう結果に行き着くこともあるわけでしょ。
だったらそれを急いでしないな。
安全を信じて見つけ出したい,という気持ちはあるだろうけど、
同時に、否を見つける場合もあるんだから。
たぶん、必死には探さないな。
必死に、
今そこで助かってる仲間と、
どうやって生き延びるかの作戦ねるな。
生きるときは生きる、死ぬときは死ぬ。
そういう感覚だ。
ドライなのかもしれないね、
って、母と話していた。
例えば、
原発事故で放射線量が増えてること。
ある番組一つをとっても、
心配ないという専門家と、
心配ないとは言い切れないという専門家が出てくる。
それでいい。
起こってる出来事について
それを心配ないと考えるのも
心配だと考えるのも、
最終的には私でしかない。
どっちなんだ?!とわめくことはない。
誰にもわからないんだから。
専門家は素人より
その件について知ってることが多いから
専門的な判断規準を自分の中に持ってる。
私には自分でその事象について
判断する専門的な規準はない。
でも、情報や様々な考え方を知って、
自分の規準でかんがえて、
どうするか決めたらいい。
正確な情報をという言葉をときどき聞くが、
正確であるかどうかなんて、
わからない。
し、わからなくていい。
投げ出された情報は、
正確か、正確でないかも含めて、
私のほうで判断せざるを得ない。
なにを信じて、
なにを疑うか。
自分の目と頭と心、
精神と身体を総動員して
自分で判断して行動する。
しかない。
きっと、
普通の毎日でも同じようにしてきた。
今まで生きてきた中で培われてきた
私の価値観
私の行動規準が
私を動かしてきた。
それがこういう事態でだ。
やたらあからさまになる。
今自分にできることを少しでも、
と、
節電する。
それもいい。
お金だそう。
それもいい。
普通に暮らしていよう。
それもいい。
自分が
いい
と思うことをしよう。
節電しようとおもっても、
できることは
あったかい便座のスイッチを切ることくらい。
いつもどれだけ慎ましく暮らしてることかと
自分を褒めたくなる。
買いだめしようとなんて思えないほど、
冷凍庫に溜まってる食料。
大事に食べるよ。
トイレットペーパー、
普通にしていて、
あとロールが二つだけ。
買い溜めしないでね、みんな。
今なにをするか。
いつも
自分の中の真を信じて
つないでいった結果が
このわたしなんですよね。
この私が
はずかしがらずに表に立てるように。
自分を生かしていきたいもんです。
今、
わたしはありがたいことに、
生きているんですから。
今日も、
祈りのうちに。